気取らず 威張らず|清野恵里子
8|能楽師、浅見真州のこと
「重衡」シテ/浅見真州(1987年6月25日 宝生能楽堂) 写真:吉越立雄
トップ画像は、多川俊映興福寺貫首と浅見真州師(奈良興福寺にて) 写真:野沢敏昭
奈良興福寺の境内の一角に建つ、東金堂に向かって造られた能舞台では、堂内の御仏に奉納する能や狂言が、毎年10月の第一土曜日に上演され、塔影能と呼ばれる。
1999年の塔影能が耳目を集めることになったのは、上演された作品が能『重衡』だったことによる。
『平家物語』巻第五には、こんな記述がある。
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺也。東金堂におはします佛法最初の釋迦の像、東金堂にをはします自然涌出の觀世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹をまじへし二階の樓、九輪そらにかゝやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしけれ。
重衡とは、治承四年(西暦1180年)、南都に攻め入り東大寺や興福寺などの堂塔伽藍を焼討した平清盛の五男、平重衡のこと。興福寺にとっては、到底許すことのできない憎き仇のはずである。そんな平家の武将を題材とした能の上演には、周辺の寺院をはじめ、周囲から反対の声が多く寄せられたと聞く。
『重衡』上演の前年の夏、観世流シテ方、浅見真州師が、興福寺の本坊に、当時のご住職をお訪ねした。この年の自主公演「浅見真州の会」のパンフレットに掲載する対談のお相手として、多川俊映貫首にご登場いただくお約束をしていた。
仲介の労を取っていただいたのは、ご住職と長い親交がおありだった、免疫学者、故多田富雄氏であり、ご住職は多田氏のおすすめで、浅見の『井筒』(1997年7月 宝生能楽堂)をご覧になっていた。
浅見の事務局のお手伝いを仰せつかっていた私は、対談の日、カメラマンとともに同行した。
薪猿楽をはじめとして古くから興福寺と能との関係は深く、ご自身も金春流の稽古でかなりの番数を上げておられる多川貫首と、浅見との対談は、初対面とは思えぬほど和やかな空気の中で始まった。
8世紀初めの創建以来、幾たびも焼失を繰り返した興福寺の伽藍。中でも最も凄惨を極めたのが、平重衡による南都焼討だったという話題になると、浅見がややためらいながら、能『重衡』について口を開く。
五百年もの間上演されぬままの廃曲だった能『重衡』を、1983年、橋の会で浅見真州が復曲。その後、何度も繰り返しシテを勤めるほど、浅見にとっては愛着のある特別な曲になっていた。とはいえ、南都を焼討した仏敵を主人公とした作品である。浅見は、興福寺をお訪ねするにあたり、話題が南都炎上に及ぶことをずいぶん懸念していたようである。
『隅田川』や、『弱法師』、『朝長』などの名曲を残した十郎元雅の作とされる『重衡』は、ほかの作品と同様、人の運命、悲劇性を主題とした作品であり、修羅能ではあるが、父、清盛の命を受け、心ならずも火を放たなければならなかった重衡の葛藤、心の修羅が描かれる。
『重衡』への思いを饒舌に熱く語る浅見の様子に、多川貫首は、「作品が懺悔を基調としたものであれば…」と興福寺での上演の可能性を浅見に告げた。
浅見は相当に気持ちを高ぶらせていたように見えたが、そんな夢のようなことが実現できるはずはないと思ったはずである。
対談を終え、東京に戻った二日後、私の仕事場のファックスに多川貫首から、翌年の10月の第一土曜日の、浅見のスケジュールを確認するメッセージが送られていた。鳥肌が立つ思いで、慌てて浅見に電話したことを思い出す。
そうして迎えた1999年10月2日。この年は、奇しくも、平重衡没後815年に当たる。
雲一つない晴天の奈良。藤原氏ゆかりの興福寺の紋である下り藤を黒く染めた、白い幔幕を張り巡らした特設の舞台がその時を待っていた。
夕刻、東金堂の須弥壇をぐるりと囲む興福寺金襴が、光を受けて堂内を朱色に染め、ライトアップされた五重塔の輪郭が、濃い群青の空にくっきりと浮かぶ。
能に先立ち、東金堂では追善の回向が営まれて、平重衡には「大悲院殿平中将求光軽安大居士」という戒名が追贈された。
南都焼討の翌年、平清盛が死去。京を離れることを余儀なくされた平氏が次第に劣勢になる中、重衡は一門の勢力を挽回すべく中心的武将として活躍するが、一の谷の合戦で捕らえられ、洛中を引き回されたのち、鎌倉に護送される。
武勇に優れ、容姿を牡丹の花にも例えられた、平重衡をめぐるこのあたりの逸話は、平家物語の第十巻、十一巻で多く語られる。
鎌倉では、引見した頼朝が重衡の器量にいたく感銘し、虜囚の身である重衡を厚遇、政子も自らの侍女である千手を重衡のもとに送って、慰めたという。その後、南都焼討という大罪を犯した、憎き重衡を強く求める南都衆徒に引き渡されて、僉議の末、木津川の畔で斬首。
「その頸をば、般若寺大鳥居のまへに釘づけにこそかけたりけれ、治承の合戦の時、こゝにうったって伽藍をほろぼし給へるゆへなり」と、『平家物語』巻第十一に記される。
能「重衡」の終盤、夜もすがら重衡の霊を弔う、僧の読経に誘われるかのように、重衡の霊が橋掛かりから現れる。
あの夜の後シテ、重衡の姿には、何かただならぬ気配が感じられた。
浅見真州は、復曲に並々ならぬ熱意を見せた。埋もれてしまっていた曲に再び命を吹き込み、蘇らせるという復曲の醍醐味は、能楽師、浅見真州にとって、格別なものであったようだ。多川貫首との対談でも、「作曲をする時に大体演出が決まっていますから、作曲と演出は一体のものなんですね。自分でこういうふうに演りたいから、こういうふうに謡いたいとか、こういうメロディーになったほうがいいとか、一体となって浮かんできますから、それを創造しているときには、とても楽しい作業なんです」と語る。
「重衡」(2016年11月5日 第24回浅見真州の会)
写真:東條睦子
浅見が復曲を手掛けた作品のなかでも、とりわけ『重衡』には、特別な思いがあり、1983年に復曲して以来、2016年の自主公演まで、『重衡』を12回上演している。
1999年10月2日、東金堂の御仏に向けた奉納能の、奇跡のような時間が終わり、舞台の演者たちがすべて去った後の見所の静寂と、五重塔の上に、冴え冴えと光る月の美しさは、あの夜の重衡の姿とともに忘れることはない。
翌年の2000年、浅見は、自主公演、第十回浅見真州の会で『独演五番能』の公演を行った。番組は、『邯鄲』、『清経』、『半蔀』、『卒塔婆小町』、『石橋』の五番の前に、『翁』を付けた。耳を疑うようなとんでもない前代未聞の企画だった。確か開演は午前10時、終演は19時を過ぎていた。独演と銘打っているので、六番、浅見真州一人でシテを勤めた。五十代最後の年、相当な挑戦だったと思うが、疲れを見せることなく、すべてやり終えた浅見の上気した満足げな表情に心底驚かされた。
以前上梓した拙著のタイトルに、浅見がひどく感動してくれたことがあった。39歳で早逝した大映のスター、市川雷蔵について書いた一冊で、速水御舟の作品、「牡丹花」を前後の見返しにあしらい、木下利玄の歌「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ」から、本の名を『咲き定まりて』とした。
浅見は、三間、つまりおよそ6メートル四方の能舞台で舞う、能楽師としての理想的な身体に恵まれていた。生得の資質の上にひたむきに研鑽を重ねた成果を、見所で目撃できたことは、幸せなことだった。
2021年80歳の誕生日を迎えたばかりの7月、浅見が急逝した。
この年の10月に予定されていた、傘寿記念の浅見真州の会の番組には、『姨捨』がある。浅見真州のことだから、毎日の散歩を欠かさず、様々に精進して、80歳でこの大曲に臨む覚悟を決めていたに違いない。
浅見の手帳には、鉛筆で几帳面に、「演りたい作品」が書かれていた。まだまだ、舞台に立ちたかったはずである。
『咲き定まりて』というタイトルは、浅見真州にこそふさわしいと、改めて思う。
清野恵里子(せいのえりこ)
群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。
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