気取らず 威張らず|清野恵里子

5|ひとり旅


 

羽田を出発してから六十数時間が経過して、ようやくシャルル・ド・ゴール空港にたどり着いた。成田に新東京国際空港が開港するほんの少し前、二十代半ばのひとり旅だった。
南回りのパキスタン航空の飛行機に乗り込み、北京、イスラマバード、カイロを経由して、パリに向かうはずだったが、イスラマバードを飛び立ってしばらくすると、機内アナウンスでエンジントラブルの発生が告げられた。
乗客たちは一時騒然としたものの、パキスタン航空は、パキスタン空軍出身の経験豊富なパイロットが操縦するという定評がある。スムーズな着陸に、私たちはみな安堵した。
降り立ったのは、サウジアラビアのジェッダ。トラブルを解決するまでに一昼夜かかると知らされた。
長い時間を共に過ごしていることで、互いに顔見知りになっていた乗客たちは、気圧されそうな立派なホテルに案内されて、割り当てられた部屋に一泊することになった。
中東諸国の中でも、とりわけイスラム教の戒律が厳しい国として知られるサウジアラビア。しかもラマダンというタイミングである。ロビーでは、取り締まりの役人と思しき白いトーブ姿の男性たちが、私たちに鋭い視線を向けた。
イスラマバードのあたりから、隣に座った女性と親しく言葉を交わすようになっていた。ラングゾー(Langues O')と呼ばれる東洋語学校(Institut national des langues et civilisations orientales)で日本語を学び、早稲田の文学部に留学中という彼女が話す日本語は、時折耳にするフランス人独特の抑揚もなく、実に自然で流暢だった。
この若く美しいフランス人女性は、かなりな大胆さで周囲をはらはらさせた。
長い脚を惜しげもなくさらすショートパンツに、半袖のTシャツという極めてラフなスタイルで、機内で知り合った何人かの若者とともに、引き留める間もなく颯爽と炎天下の街に消えたが、すぐに連れ戻された。
そろそろ夏を迎えようかという、かの地の日差しは強烈である。照り付ける太陽を避け、何をするわけでもなく道路の脇に横たわる男性たち。空港からホテルに向かうバスの窓から見た彼らから、注がれるであろう、好奇の目を想像した。
幸い何事もなく、一夜が明けて飛行機はジェッダの空港を飛び立ち、私たちは無事パリに到着した。

いつの間にか記憶にあった景色が変わってしまう東京と違い、パリには何世紀も前の建物がそのまま残る。訪ねてみたいいくつかの場所があった。
大学を卒業したばかりのころ、山間の温泉地で古くから続く宿に嫁いだ従姉と、ヨーロッパ各地の保養所を訪ねる旅に参加したことがあり、その途中立ち寄ったパリでほんのわずかな時間を過ごした。ホテルの経営者を集めた旅である、宿泊したホテルはすべて五つ星だった。由緒あるホテルの、ロビーのマホガニーの床に敷かれたアンティークのペルシャ絨毯や、ヴィスコンティの作品「ベニスに死す」で、ダーク・ボガードが演じた主人公アッシェン・バッハが、ゴンドラから運び込ませたいくつものモノグラム入りのトランクを思い起こさせるクローゼット。ホテルのいたるところに見られるマルケトリーの細工や、天井の漆喰のレリーフなど、経年による変化が価値となった様々が、今もはっきり目に浮かぶ。
アンリ・ド・レニエ作『生きている過去』(窪田般彌訳)の岩波文庫版のカバーには、「荷風が心酔した黄昏の詩人レニエ(1864-1936)の傑作小説」と書かれている。このフランスの小説に「心酔して」、お茶の水のアテネフランセに何年か通った。
原書にはなかなかたどり着かなかったものの、神田の駿河台下に店を構える古書店「文庫川村」の棚に並ぶ十九世紀から二十世紀初頭のフランスの作家たちの作品を読み漁った。
一週間のパリ滞在、「訪ねてみたい場所」の最初は、そんな作家たちが眠る墓地だった。モンパルナス、モンマルトル、ペール・ラ・シェーズ、この三つの墓地に熱狂した。
パリに到着してすぐにキオスクで購入したのが、赤い表紙のパリの地図(Plan de Paris par Arrondissement)だった。何しろ半世紀も前の事である。スマホを手に検索エンジンを駆使して、瞬時に必要な情報をゲット、などどいうわけには行かない。
確か墓地には、印刷された有名人たちの墓地案内があって入り口で手渡されたような気がする。残念ながら、レニエの墓参りは叶わなかった。

地図帳とともにバッグに入れて持ち歩いていたのが、河盛好蔵著『パリの憂愁 ボードレールとその時代』である。口絵の写真や、付録の「パリのボードレール地図」を眺めては、この詩人が歩いたであろう街並みをたどったが、中でも、1843年の秋、彼が移り住んだサン・ルイ島のアンジュ—河岸十七番地のピモダン館は、ピモダンという名前の響きとともに、特に印象に残っている。このあたりを歩いていると、若き日のボードレールが、往時の姿で、建物の角を曲がってこちらに歩いてくるような、錯覚にとらわれた。今の若者が作品の舞台となった場所をめぐる「聖地巡礼」のようなものだろう。文学少女ぶりが、ちょっと恥ずかしい。

かくして一週間の滞在はあっという間に終わって、空港に向かった。
出発の手続きを終え、広い飛行場に並ぶたくさんの飛行機を眺めると、まず目に飛び込んだのは、輝くような白い機体に、Japan Airlinesの文字。誇らしげに羽を広げる赤い鶴のマークがまぶしかった。目指すパキスタン航空の飛行機の尾翼は落ち着いたシックな深緑である。ひたすら帰路の無事を祈った。

パキスタン航空を検索していたら、バックパッカーの御用達という書き込みを見つけた。そういえばと、六歳違いの実弟に電話した。いつもは「何?」とさも面倒くさそうな様子の彼が、「パキスタン航空」というワードに熱く反応し饒舌に語った。
北大山岳部出身で、1982年に厳冬のダウラギリ初登頂を果たした北海道大学山岳部・山の会ヒマラヤ遠征隊にはOBとして参加している。
あと数年で七十歳を迎えるという今も、どこで見つけて来るのか、息子や娘、時には孫のような若者と、怖い山登りを繰り返しSNSに満面の笑みを浮かべて写る。驚くことに彼のパキスタン航空の利用は二〇回を超えているという。パキスタンのイスラマバードから、軍用機でカラコルム山脈に向かったこともあると、さも自慢げに話してくれた。
Pakistan International AirlinesのスリーレターコードはPIAである。ネットで、PIA は、Perhaps I'll Arriveの略だというジョークを見つけ、深く納得した。

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。