気取らず 威張らず|清野恵里子

4|斉須さんと井上さんのこと


 

1992年朝日出版社から刊行され、30年経った今も版を重ねる『十皿の料理』には、フランス修行時代の斉須政雄シェフが、五感を研ぎ澄まして、静かに、激しく吸収したすべてがぎゅっと詰まっている。
1973年羽田空港のタラップを昇りフランスに旅立った若干22歳の斉須さんが、本人曰く「熱中の12年」を経て、成田に降り立ったのは1985年の夏。翌1986年、港区三田にあるマンションの一階にフランス料理の店、コート・ドールがオープンした。
フランスから持ち帰ったクリストフルのカトラリーはピカピカに磨かれ、素っ気ないほどシンプルな白の食器に飾らぬ料理が載せられて、「十皿の料理」は、今も変わることなくテーブルに供される。
カリグラフィーのような美しい文字が並ぶフランス語のメニューは、36年前にコート・ドールがオープンした時からほぼ毎日、斉須さんの手で書かれている。いつだったか、このメニューのことを聞いたことがあった。「フランス語を忘れないように」という,なんの衒いもないシェフの答えが返ってきた。書きあがったメニューを、スタッフが近くのコンビニでテーブルの数だけコピーする。これもまたコート・ドールの大事なルーティーンである。
厨房の片隅に置かれたデスクに向かい、一文字一文字丁寧に綴るシェフの後姿を想像して、斉須政雄という人の凄さに、今更ながらというか、今になってようやく深く気付かされた思いでいる。

聞いたことのない名のウィルスの出現で、言い知れぬ不安な日々に人々が右往左往し始めた2020年の初夏。コート・ドールが休むことなく営業を続けていると聞き、到来ものの酸っぱい夏ミカンを段ボールに詰めて、陣中見舞いに斉須さんを訪ねた。

震えるほど酸味の強い夏ミカンが大好物であることは、シェフと長い付き合いのあった友人から聞いていた。
友人の名は、井上喜久子。ごく親しい友人たちは、この人のことを「おばば」と呼んだ。今の時代、ハラスメントという言葉を思い浮かべて眉をひそめる人もありそうな三文字なのだが、彼女との30年近い付き合いの中で、この言葉に込めたリスペクトを含む複雑な思いを、どうもほかの呼び名で表現することが出来そうもない。
昭和8年長野県に生まれた井上喜久子は、早稲田大学文学部を卒業後、文藝春秋に入社する。その経歴から文学少女であった過去を思い描いていたら、大学時代、つまり自家用自動車が急速に普及し始める以前の昭和二十年代後半、自動車部に所属していたという意外な過去を本人から聞かされ、ひどくびっくりしたことがあった。
社内結婚が認められないという理由で、同僚との結婚を機に退社を余儀なくされた。そんな不条理の多くをもっぱら女性が引き受けなければならない現実は、正直言えば、今だってそう変わりはしないとも思うが、唇を嚙んだであろう彼女の悔しさを思うと、心が痛い。
私たちの出会いは1986年、36年前にさかのぼる。文藝春秋を退社するきっかけとなったおばばの結婚生活は長く続かず、駒場の閑静な住宅地、日本民藝館の近くのアパートの二階の角部屋にひとりで暮らしていた。フリーランスの編集者として、とりわけ「食」にまつわる取材に忙しく飛び回り、日中はいつも留守だった。
名だたる料理人に愛された人であったが、訪ね歩いたたくさんの生産者からも慕われて、全国各地から食材が届けられた。配達してくれるドライバーをねぎらう、いかにもおばばらしい言葉を添えたカードをドアに貼り、ガムテープで止めた小さな箱には認印を入れていた。アパートの扉の脇には、段ボールの箱が積まれ、食いしん坊の妹分である私は、しばしばその恩恵にあずかった。
米や味噌、塩、醤油、酢、宮崎の天白どんこや、関東の人間にとって当時まだ馴染みのなかった長崎の焼きアゴなどさまざまで、京都の千花の親方から送られたという特級の昆布は、30センチばかりはさみで切って、ちょっともったいぶった様子で分けてくれた。
あの時代、おばばから教えられた飛び切りの味は、いつの間にか、私にとって代えがたい味覚のスタンダードになった。
千花の親方と言えば、心尽くしの京土産を携え、コート・ドールを訪れるのが常で、そのたびにおばばにも同じ包みが渡された。中でも忘れられないのが、上品な甘さの漉し餡に、上等なわらび餅のような透明で柔らかな衣を纏わせた、確か伽藍餅という名のお菓子だった。

編集者、井上喜久子の仕事の中には、丸山洋平、飯窪敏彦、垂見健吾といった文藝春秋の名カメラマンたちとタッグを組んで丹念に取材し、編集された何冊かの本がある。
1993年に刊行された『チーズ図鑑』は、発売以来、単行本から新書に形を変えてアップデイトされながら、現在世界11ヵ国で翻訳されて、バイブルのように読まれていると聞く。この本は、おばばが大切にしていた特別な一冊だった。
念願の『チーズ図鑑』が実現するまでのこと、とりわけ丸山カメラマンが運転する車で、土埃を上げながらフランス各地のチーズの生産者を訪ねて回った時のことなど、実に楽しそうに話してくれた。
奥付けには、初版1993年11月1日とある。準備の段階から、おそらく数年、あるいはそれ以上の時間を要したはずだから、私たちが出会った頃のおばばの頭の中には『チーズ図鑑』の構想がすでにあったのだろう。
おばばは前に出ることを頑なに嫌った。私はそんな彼女を歯がゆい思いで眺めていた。フリーランスの編集者として、あくまでも黒子のような立場で続ける仕事は、歳を重ねるにしたがって厳しい状況になっていく。日々の暮らしがひっ迫しているであろうことも想像できた。それでも、新しい年を迎えると、おばばが懇意にしていた富ケ谷、岬屋の花びら餅を、親しい人たちに配っていた。井上喜久子が生涯貫いたスタイルだった。

80歳を前にしておばばが急逝した。
訃報に接して間もない頃、ずいぶん前から約束していた友人と、コート・ドールを訪れた。彼女の逝去の知らせが、斉須さんのところにはまだ届いていないことはわかっていたが、あの夜は、斉須さんに会わずに帰るつもりだった。とても彼の顔を見ることなんてできないと思った。
おばばはコート・ドールを訪れるたび、必ず厨房のシェフに声を掛けた。二人の年の差は17歳。おばばは、遠慮のない厳しい言葉を斉須さんに掛けていたし、年の離れた姉に甘える弟の様な斉須さんの意外な一面も何度か目にする機会があった。
急いで支払いを済ませ、支配人の松下さんに、おばばの逝去のことを伝えて欲しいと耳打ちすると、彼は動揺した様子で首を振って、無理だと答えた。
間もなく厨房の扉が開き、いつもの人懐っこい笑顔で斉須さんが現れた。どう伝えたらいいか、言葉が見つからない。迷った挙句、「喜久子さんが亡くなった」と告げた。ほんの少しの間があって、斉須政雄シェフの姿が、必死に涙をこらえる弱々しい少年に変わっていた。

酸っぱい夏ミカンの陣中見舞いからひと月ぐらい経った暑い夏の日。斉須さんの「しそのスープ」がちらりと頭をかすめた。
フランスから帰国した斉須さんが、「顔がくしゃくしゃになるほどの梅干しで、夏のスープを作ってみてはどうか」と思いついた、夏のスペシャリテ「しそのスープ」である。
長く続くコロナのトンネルのほんの入り口の頃だったから、友人を誘うのは少々ためらわれ、平日の昼、ひとりで出かけることした。
「十皿の料理」の中で斉須さんは、「しそのスープ」のことに触れた文章の最後に、「誰にだって、穢されたくない掌中の珠があるでしょう。スープ皿にのせる、そんな、僕の掌中の珠です」と語っている。
中庭の桜の木が見えるいつもの席ではなく、一番奥の隅っこのテーブルを選んだ。目を瞑り、こころゆくまで味わう。ひとりの食事の醍醐味を知った。
梅干としそ、トマトの果汁、アボカドをミキサーにかけ、金糸かぼちゃを浮き身にした、清浄な夏のスープを、ひとさじすくって静かに口に運んだ。

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。