気取らず 威張らず|清野恵里子

11|職人さんたちのこと


 

 もうじき四月という頃になると、家の前をぐるりと囲む竹穂垣の隅、猫の額と言うのも憚られそうなほんのわずかな地面に山芍薬が蕾を付ける。10日ばかり、ゆっくりゆっくり時間をかけて開花するのだが、その健気な姿が気になって毎朝観察することになる。
 山野草と呼ばれる儚げな花を、都会のような環境で地植えするのは難しいらしく、その方面に詳しい方々から、我が家の山芍薬の開花にお褒めの言葉を頂戴する。

 パートナーのPと私が還暦まであと数年という頃、長年住んだ家に不便を感じるようになって、建て替えを決めた。20年ほど前のこと。30坪の敷地に建てる小さな家である。

 Pも私も、何かにつけてこだわりがある。しかも年齢を重ねるにつれ譲れぬことが多くなっていた。
 ささやかな広さとは言え、まったくゼロからスタートするフルオーダーの家づくり、一筋縄では行きそうもない。
 頭に浮かぶ「色」や「カタチ」を共有できる設計者探しは、容易なことではなかろうと覚悟したが、ある建築家との偶然の出会いで、その先の展開が約束されたように思えた。
 骨董屋巡りを週末の楽しみにしていたPが、いつものようにのぞいた銀座の店で、K氏に出会った。
 ひとくちに骨董屋と言っても、古美術のジャンルは多種多様で、時代も地域もさまざまである。店主の眼で集められたモノを目当てに客が集い、時には、店じまいの頃合いを見計らってやってくる常連が自慢の盃など披露し合って、同好の士の宴となることもある。
 骨董談議などするうち、我が家の建て替えに興味を示したK氏から基本プランを考えさせて欲しいという申し出があった。
 心惹かれる逸品を前にして言葉を交わせば、おおよその好みも知れる。おそらくは、依頼人と設計者の理想的な出会いの場となったと思われる。
 ほどなくK氏から出された設計プランは、我々を大いに納得させ、建て替えの具体的な計画が動き出した。

 以前暮した家は、車1台分の駐車スペースを確保するため、道路からセットバックして建てられていた。近い将来確実にやってくる免許証返納という事態を考えると、セットバックのスペースはいかにももったいない。近くの駐車場を借りることを決めると、垣根をめぐらせた三畳ほどのスペースはテラスに姿を変えた。
 このあたりは風致地区である。建物の高さにも制限があって、3階建ての家は建てられない。K氏は、1階をグランドラインから50センチ下げて地下1階とし、地下1階、地上2階の建物として申請した。その結果、テラスは道路より低い位置となって、ドライエリアも兼ねた。
 ドライエリアとは、地下室を作る際、建築基準法により建物の外部の地面を掘り下げることが義務付けられているスペースのこと。採光や通風、防湿などが確保される。
 その結果、塀に囲まれ、外からの視界が遮られた慎ましい広さのテラスは、居ながらにして自然が感じられるありがたい場所となった。この片隅に山芍薬が毎年花をつける。

 住まいの解体から始まった建て替え工事の着工は2006年。耐震偽装という事件が盛んにメディアで取り上げられ、建築基準法の見直しが行われた直後である。解体後の調査の結果、地盤強化のためのコンクリートパイルを何本も埋め込むという工程も加わって、少々長い期間、仮住まいを強いられることになった。
 RC構造,3フロアーの建物の地下1階を居間、台所、浴室、トイレ、1階を私の、2階をPのプライベート空間と決めた。
 共に建築家であるK氏夫妻と、我々4人で週末集まってはブレストを重ね、建物全体の雰囲気、床や壁の色など、イメージの共有を図った。
 私に任された地下1階と1階について、設計者への要望はそう多くはなかった。居間は、テラスに面した2間あまりの開口部に大きな引き違いの2枚のガラス戸を入れることで、明るく開放的な空間になる。長年使い続けて愛着のある、Knoll製のブルーグレーの大きなソファーと、チーク材の家具を中心にした軽快な雰囲気に。一階はがらんとした箱のような、昔から大好きなスイスの建築家、ピーター・ズントーが作る空間をイメージして。いずれも天井照明は極力抑える。そんなことをK氏に伝えた。
 最大の難関はPの自室となる2階にあった。Pは自分のテリトリーに、かねてより念願の「茶室」を造ること考えていた。
 部屋の中に茶室を造り込むという不自然さや違和感とどう折り合いをつけるかという大命題に、PとK氏は頭を抱え、私は担当外と高みの見物を決め込んだ。
 ふたりがあれこれと悩む日々が続いていたある日、Pが骨董の蒐集を始めた頃からお付き合いを続ける古美術店の主人、T氏から思いがけない贈り物があった。「天平の古材」である。
 不自然さや違和感をすべて払拭することなど所詮無理なことなのだが、泰然と構える天平の柱を前にすると、ふたりの間にあれこれと浮かんでは消えるアイデアは霧散して、造るべき茶室の輪郭が見えてきたようである。
 天井は枌で網代に組み、壁は土壁、床の間にはすべて天平の古材を使うこと。二畳隅炉の茶室に決まった。

 工事に参加してくれた職人さんたちはみな、かつてK氏が一緒に仕事をした気心の知れた人たちである。腕の良いことは言うまでもない。そんな彼らが各地から招集された。その中で最も滞在期間が長かったのが、山形の新庄からやって来た工務店の面々だった。
 今考えれば奇跡のようなことだが、当時、我が家の周囲には数軒の空き家があり、その中の一軒を彼らの宿舎に借りることができた。テント張りの現場事務所も、現場のすぐ前の空き地につくられた。
 Pは、通りから路地を入ったこのあたりを「小さな隠れ里」と呼び、手入れされぬまま枝を広げる辛夷や椿、紅梅や白梅などが、順繰りに季節の花をつけた。

 ずいぶん長い時間が経過した今でも、現場で働いていた職人さんたちの姿が鮮明に浮かぶ。
 棟上げ式の日の印象的な光景がある。都会ではあまり見かけなくなった昔ながらの建前が粛々と進行する中、棟梁が祭壇に向かって正座し、白扇に手を添えると、謡曲「高砂」の一節を謡い始めた。巧拙を超えた長閑な謡いが心に染みた。

 話が前後してしまうが、繰り返されたブレストの最初の日、K氏が重そうな荷物を抱えて現れた。荷物の中身は、30センチ四方のべニア板に塗られた漆喰の見本である。日本各地で採取される土の色は驚くほどバラエティに富む。漆喰に混ぜ、微妙なニュアンスの違いのある何枚もの見本が目の前に並べられた。その中からPが迷わず選んだのは、やや緑を感じさせる伊賀の土を混ぜたものだった。
 当初、漆喰仕上げは2階と玄関回りで、あとは塗装の予定だった。もちろん費用の問題である。ところが左官職人のYさんから我が家の壁すべてを漆喰にしたいという提案があった。しかも、かなり良心的な金額の提示も添えられた。
 かくして、我が家の壁はすべてYさんと彼の後輩たちが漆喰で仕上げることになった。

 茶室の土壁塗りに、K氏が呼び寄せたのは、国宝や重要文化財の壁の修理なども手掛けた、名人といわれる讃岐の左官職人のIさんである。
 直島の「家プロジェクト」のひとつ、内藤礼作品「ぎんざ」の実施設計を担当したK氏が、現場でIさんと出会っていた。
 Iさんは猛暑の中、息子さんが運転するトラックに土壁の材料や道具を積んで、はるばる四国からやってきてくれた。
 古い木造家屋の解体などに遭遇すると、崩れた壁からのぞく竹の下地を目にすることがある。竹を格子に組み、棕櫚や麻、蔓などで編んでいく作業を「小舞を掻く」と言う。Iさんのトラックの荷台の覆いの下は、刻んだ藁を混ぜてこねた何種類かの土や、細く割った竹に細い煤竹、さまざまな道具などである。

 長旅の疲れを見せることなくIさん親子は翌日から作業に取り掛かった。
 このころ現場には各階の漆喰を塗る左官屋さんたちが残っていて、時折やってきては、小舞を掻くIさんの手元を熱心に見つめていた。
 小舞に土を塗り込める荒壁、その上に重ねる中塗りの作業を終えると、I さんは一度高松に戻って乾燥を待ち、最後の上塗りのために再び現場に現れた。
 すべての作業を終えた日。茶室の前に集まった左官職人さんたちがIさんを中心に車座になった。
 左官屋さんたちに限らず、熟練の職人さんたちと、彼らが手入れを欠かさない大切な道具とのマニアックな関係はとても興味深いものがある。
 目の前に並べられた大小の金鏝に熱い視線が集中し、Iさんの言葉に真剣な表情で耳を傾ける職人さんたちの姿が忘れられない。
 Iさんは、我が家の茶室に塗った土を持ちかえり、自宅のどこかに塗ったという。
 経年による土壁の表情の変化を眺めていてくれたはずである。時折、近況を知らせる手紙などを交わすうちに、しばらく音信が途絶え、Iさんが鬼籍に入られたことを知らされた。

 あれから20年近くの時間が過ぎた。当時は十分に理解できなかった職人さんたちの仕事のすごさに気づかされることがある。

 

清野恵里子(せいのえりこ)

群馬生まれ。文筆家。伝統芸能や、古美術、工芸、映画など、ジャンルを超えて、好奇心のおもむくまま、雑誌の企画、執筆など続ける。独自の美意識に基づくきものの取り合わせは、多くのきもの好きに支持される。『咲き定まりて 市川雷蔵を旅する』、『時のあわいに きものの情景』など著書多数。