ときの酒壜|田中映男
25|アフリカ聯話12 ヌペ族の馬揃え[下]
(承前)
ダーバ祭りの客に飲み物が配られました。馬が一頭走って来て、その鞍の上でヒトが片手をついて逆立ちしています。道化役らしく顔を青ヅラに塗り、「デビルだ、デビルだ」と囃されます。太鼓隊とラッパ隊が行進して、ラッパが並んで吹かれました。群衆が「ヤンダ・ヤ・デデ(首領に長寿を)!」の掛け声を掛けます。うながされた青鬼が馬上で回転して、飛んで降りました。手で胸を叩き、足で地べたを蹴ります。肩を露出したドレスは、自分は女でもあると言っているようです。手で胸を指すのは、きっと布製の乳房を誇示しているのでしょう。青い兜は5本角です。胸板の筋肉の割れた青塗りの悪魔が、地べたから「おいで」と招くと、招客が笑います。
以前一度ヤハヤに質問しました。「あとは息子が継ぐのか?」と。その時、ヤハヤは説明しませんでした。事情がありそうなので、質問を継げませんでした。
今日は客が多いのですが、二人きりの時に改めて聞きました。「……それがわからない。われら親族には三家があってね、順に叔父から甥につないで来た。でも書き物といったものもなくってね、その時にならないと決まらない。祖法があるかと聞かれれば、あるようでないようで……状況によるのさ。時が来ればわかる」。
ヤハヤ自身は、陸軍の同期たちにさえ(王位を継ぐ資格を)明かさなかった。
彼の父は11代エツ・ヌペの弟にあたる。「母は9代エツ・ヌペの娘だが、その兄が12代を継いだ」。そうか、母方で言えば彼は9代の孫で、父方なら先代の甥なのだ。ちょっと家系図を一本の線で描けない。
何だか平安の御代に京都を訪れた外国人が、藤原家の友達から氏の長者の交代の説明を聞かされた気分です。
さらに隣りから話しかけて来たのは、別の部族の王様でした。「アルハジ(聖地巡礼をした人に対する尊称)ヤハヤと何処で知り合いになったんだい。彼は無法者と頑固者をうまくあしらうんだ」。新聞を賑わせた某(知らない名前)が、妻の数を増やしすぎて、我々は困ったことになった。「80数名はさすがにちょっとね。ところが某はそれは即ち神の配慮だ、と引かない。そこでアルハジは考えた。全国のイスラム法学者の中でも高名なものばかり選んで、5人委員会を作った。なにせナイジェリア人が好きなものは委員会だ。みな選ばれたいのにソウは言わぬ。それでいて推薦されたら今度は、熱心に辞退する。自分はその器でない、と見事に推敲した演説を人に聞かせるのさ。結局最後に引き受けるまで世間はその話で持ち切りになる」。ヤハヤは時間をかけて世間が問題をよく理解してから、委員会の5人を選んだ。委員会は「ムハンマドが妻は4人までと定めた。某は4人に減らせ」という法律解釈を出した。ヤハヤは某に「4人である。コーランに上訴はない」と言い渡した。「付け込む隙がなかった」と感心していました。
今度は、その隣りの王が来て自慢します。ギネスブックの記録保持者だそうです。2歳で即位したのはギネスの最年少即位記録だそうです。叔父が宮廷クーデターを起こし、「母は赤子の自分を抱いてロンドンまで逃げ、そこで即位した」というのです。この王はまだ若く10人の家臣が扈従しています。白髪の老臣たちは、お揃いのスカートで王の前後を警戒します。白絹の刺繍を入れたくるぶしまでのスカートです。一斉に両の拳と左右膝頭を床に着けました。五体投地の格好で臣下の退席を告げます。隣りの王は、「私の食事の姿を臣下が目にすることはないのです」と説明し、続けて「自分は出来れば日本皇族を嫁に欲しいと考えている」と言いました(皇室の伝統が世界一長いからというわけです)。
飲み物はソボ(ブーゲンビリヤの花びら茶)とコーラでした。実は今朝運転手のサイモン君が、イスラム教徒は酒を吞まないけれども、今日は近隣の基督教徒も招かれていることだし、椰子酒が出るのではないでしょうか、と言ってました。
椰子酒はたいがい美味しいのですが、つくるのは手間仕事です。木登りの巧みな屈強な男の仕事です。腰に山刀をさし椰子の葉で編んだ腰縄に大きな尻を預けて、ゆらゆら登り、幹を切り液を溜めます。長く発酵させると、酒精分は増えるものの酸っぱさも増えます。加減は杜氏によって異なります。ちょっぴり甘くて、炭酸でジュワっとする。余り酔わないようです。個人の感想ですが。そんな客同士の会話が聞こえたのか、厨房から伝令が来ました。「今日は椰子樹が花を付けた。酒造りには適当でない」という知らせでした。
祝賀客が歩き回る部屋で、合理性と伝統保存の兼ね合いの話が出ました。騎馬でも戦車でも、指導者の判断で線を引いて合理と伝統のバランスをとる。ヤハヤからも質問がありました。「我らにひと際大切なのは伝統さ。もしヌペの伝統を一言で言えばアテチュード(立居振舞)になるかな、それを保つんだ。日本人には驚く。欧米の文明と技術を入れながら、アテテュードを保っている。そこのところが知りたい」。
彼は戦車隊を統率して最速で目的地に到達する訓練を受けました。騎馬隊の統率行動は同じように見えて、更にアテチュードが必要になる、らしい。
「これは結構難しい。ヌペは馬上で心を遊ばせる。余裕を保てれば、馬上の姿勢が良いから、全員で進軍して敵軍を圧倒する。先祖は北アフリカを出る時、馬と駱駝の背に土嚢を載せた。急いで進軍するなら棄てたらいい。先祖は土の持つ何かの徳を知っていた。行く先々で土味を比べてビダが良かった」。土味、土の徳とはアティテュードでもあるのか。
「父は”カメレオンが転べば神様が顔を隠す”とよく言った。ぼくが急いで何かしようとすると、諭してくれた。もし世界の出来が不細工であったら、のんびり者のカメレオンでも転ぶ。それなら、神は恥ずかしくて、顔を覆うとね」。
「兼ね合い」の苦心の話を聞いているうち、ぼくはナイジェリアを誉めました。
「先月の州知事と国会議員選挙の時、ぼくはEU大使と一緒に選挙監視に参加した。投票所の前で見ていると、男が来た。いきなりぼくに100ナイラ札を2枚出して、○○に投票しろと言った。断っても全然引き下がらない、ダメなんだ。聞く気がない。受け取ってくれ、無理だ、男は言う。お前が受け取れば、オレは日当を貰えて家に帰れる、妻子を食べさせるんだ。と押し問答になった。先進国なら、言い訳を先に用意して。、それから金を渡す。逃げ道を作るのだ。ナイジェリア人の方が率直なのが、好感が持てる。正直なのに感心します」と。
田中映男(たなかあきお)
1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。
< 24|アフリカ聯話11 ヌペ族の馬揃え を読む