ときの酒壜|田中映男

24|アフリカ聯話11 ヌペ族の馬揃え


 

 アブジャの公邸はあぶないので鉄条網に囲まれていますが、鉄条の前には優しく椰子の木が生えています。
 ある朝見たら一本の椰子の木の幹が妙な風です。椰子の木の幹は下が黒っぽく上は緑でなだらかに伸びます。丁度その黒と緑の端境いが孕み始めて何か始まる気配です。枝状の嚢(ふくろ)が出ると日ごとに延びます。やがて海中の珊瑚の枝振りにそっくりな豆乳色の枝が生えて来ました。枝に豆粒のような象牙色の花がびっしりと付いています。
 「ああこれは珍しい。椰子の花ですね。めったに咲きません」と庭師のマイケルが教えてくれました。花が咲くと養分を蕩尽することがあります。うちの村の長老は、マイケル、何でも気を付けるのだぞと戒めてくれました」。
 その日、ナイジャー州ビダのヤハヤ・アブバカールから招待が届きました。イスラーム教のイードルアルフィットルの祭りに合わせてヌペ族が馬揃えの祭り《ダーバー》を行う、というその年一番の祭りに招かれました。
 ヌペ族は遠国と交易するためサラブレッド種の馬を育てています。木炭を焼いてビーズ玉を細工します。なによりヌペ族には水稲栽培の伝統があります。もみを直接蒔くのと水路が簡単だったので、収量が少ないため、日本が灌漑稲作に協力しています。ちょうどヌペ族から鳥取大学にいって水稲栽培を学んだ専門家がいてくれて、日本とビダの村人の橋渡しになったようです。灌漑稲作は、獲れ高が直播きの倍を越えるそうです。村の暮らしが良くなると、今度は保健医療の分野でも橋渡しがあって、昨年には農村保健センターを建てました。そこを見て驚いたことがあります。廊下の突き当りに一つ何も無い部屋があるのです。専門家が村人からリクエストを集めた成果で、床に毛布が一枚敷いてあるだけの昏い小部屋です。
 「本当にこれでいいんですか」。
 「これがいいそうです。農家の主婦は家と村の世話で忙しいんです。自分で具合が悪いと異変を感じ取ったら、ここへ来るんです。じっと休んで行きます。治れば出て行きます」。
 ヌペの首長には聞くほどに多くの位があって、ヤハヤの父はその一人でしたが王にはならないままでした。その兄、つまりヤハヤにとって叔父が首長の一番上の位であるエツ・ヌペを継いだのです。その甥であるヤハヤは13代目エツ・ヌペに就いたのですが、それは中々の回り道でした。ナイジェリアのデフェンス・アカデミー、士官学校に入学して軍歴を進みました。英米に留学すると機械化部隊の戦術を研究して戦車大隊長(准将)に昇任したところで、叔父さんが亡くなって王位に推されたのです。今度はイスラームのお祭りでヌペ族の《ダーバー》をやるから見においでと声をかけてくれたのです。
 そこでぼくは、稲作灌漑と硝子玉造りの工房とサラブレッドの馬術を見に来たのです。彼から聞きたい事もありました。軍隊教育と欧米留学で、ヤハヤには合理思考が叩き込まれていると思われます。軍隊は無駄を減らして行軍します。目的地まで出来る限り短かい距離を直進するという思考だと思います。戦車部隊の指揮官から転じて王になれば、部族を結集させるために、たとえちょっと無駄であっても、譲る必要があります。そのあたりを彼はどう対処したのか知りたいと思いました。

 ナイジェリアの他の民族と比べるとヌペ族の宮殿は質素だと思います。招かれた客の座る広間は二十畳くらいでしょう。その奥まった場所に長い赤皮のソファを置いてヤハヤが息子と座っていました。後ろには長老や使い走りの若い者が立って、ヤハヤの左右のソファに座る招客の世話にあたります。前面の硝子戸を4枚開けて庭が遠くまで見渡せます。右から5騎、左から7騎、また10騎とヌペの騎馬隊が跑足や速歩でやって来ると集団ごとに美しい旗を立てます。仲間を呼んでいるようです。騎乗部隊の衣装と、馬武具は赤や緑、青や白で統一されて金モールで飾られています。馬列は延びて蛇行して合流して川になります。群れの数が増えて数千にはなっているのではないか、「今日は2万を越えた」と誰か言います。馬列が土煙を蹴立ててぶつかるのを見ると、18世紀ナイジェリアの北部諸州をハウサとフラニの騎馬の大軍が駆け回った時代、ヌペも加わった歴史を想い起させます。その時の征服戦が終わったところで、英国人がベルリンの欧州列強の会議でナイジェリアを我が物としたのです。

 騎馬隊が次第に前に迫ります。長い銃身で空を突くと、声を貯めて拳を振り上げ、皮ソファの王に向かい、「ヤンダ・ヤ・デデ!(我が首領に寿ぎを!)」と囃します。それはつまり、今年また王が再生し若返りする祈りなのだそうです。7歳の息子イシュマイルは希臘ローマの彫刻そのままのハンサムな少年です。鑿で彫った跡が見て取れる程に端正なラインの横顔が、今日は白い寛衣の中で緊張しています。

 

田中映男(たなかあきお)

1947年、東京都生まれ。1971年、外務省入省。2010年にオーストリア大使を退職するまでの40年間に、海外の任地に8回勤務、80カ国以上を訪問。趣味は茶の湯、陶芸、銅版画など。