relay essay|連閏記
9|電光石火の話
港 千尋(写真家)
写真は瞬間を捉える芸術というが、具体的にどのくらいの時間だろう。わたしが写真を始めた頃に使ったカメラには、1/1000秒の<高速シャッタースピード>の設定があったが、実際に使うことはあまりなかった。ところが最近のデジタルカメラは桁がちがっていて、最高速1/32000秒などという機種もある。40年前の高速は今や<超低速>と言われかねない。肉眼の瞬きに変わりはなかろうが、写真の瞬間は驚くべき世界に突入しているのである。
瞬間を相手にしているからか、わたしには長い時間への憧れがある。博物館などで石器や土器を見ていて不思議と心が落ちつくのは、そのせいかもしれない。黒曜石を割って作られた鏃(やじり)が展示ケースのなかでキラリと光ったりすると、しばらく目を離せなくなる。黒いガラスの光沢が幾千年の時を超えて、この瞬間に届いているという気がするのだ。
ある時、そうした鏃や石鏃はかつて「雷石」と呼ばれたことがあると知って興味を持った。石器がいつどのように作られたか分からなかった時代に、石器は雷が生み落としたモノと考えられたというのである。中国からは雷石や雷斧という語も伝わったそうだが、欧米でも同じような見方があったようで、英語にはサンダーストーンという言葉がある。雷鳴とどろく大嵐で土砂が洗い流された後の畑などで、鏃が見つかるのがその理由のひとつという。おそらくそこには人為によるものとは到底思えないという、驚きもあっただろう。石器時代という呼び名もなかった時代に、奇跡的に美しい形態の鏃や石鏃を手にした人びとは、雷神の仕業と思ったのであろう。
迷信と言えばそれまでだ。でも雷が石を作るという話は、本当にある。雷が落ちたときのエネルギーで、土や岩石が瞬間的に溶けて固まったもので、その形状から「雷管石」と呼ばれている。もっとも落雷が起きた結果なら、いたるところで見つかってもよさそうなのだが、そうではないらしい。サハラ砂漠やアメリカ西海岸などでは見つかっているが、石としては世界的に珍しい。日本初の発見は、北海道の岩見沢市奈良町で1968年に見つかったもので、現在は岩見沢郷土科学館で特別展示されている。大きな岩石の一部で、表面は細かい砂利のような灰色をしているが、断面はガラス質で黒く光っている。大きなガラスの管の表面を岩が覆っているようでもあり、それが雷管石の名の由来だろう。採取された石は重量およそ60kgだが、それは地表に近い部分だけで、埋もれていた全体を含めるとその4倍弱はあったと見られている。
博物館の解説によれば、雷管石が生成するには通常「6億ボルト」というとてつもないエネルギーが必要で、日本の気象条件ではそこまで電圧がたまることはないという。アフリカやアメリカ大陸のような超高圧のエネルギーが積乱雲のなかにたまらないので、日本では頻繁に落雷があっても雷管石は出来ないと思われていた。そこで岩見沢の例は発見当時に大きな注目を集めることになった。発見場所の付近にあった高圧線が落雷時に何らかの原因で高圧線が地表に触れ、それがエネルギーを倍加したのではないかともいう。
原因はさておき、わたしが面白いと思ったのは、雷管石の全体の形である。推定図を見ると管と言っても一本ではなく、まるで木の根のようにたくさん枝分かれした樹状の石なのである。それは細かく枝分かれして落ちてくる稲妻の形を思わせる。嵐の日に天を光らせる雷が、そのエネルギーで大地のなかに、自分に似たような形の石を作ったような印象である。「雷の化石」と呼びたくなるような、不思議である。想像を超えた出来事を、わたしたちは「青天の霹靂」などと表現してきたが、雷管石はその類いのものかもしれない。
天を走る稲妻をその瞬間に写真に記録するには、それなりの技術が必要である。百年以上前にはすでに雷の撮影が行われていた。電光がそれ自身を定着させた写真には、画家には見えなかったフラクタルの枝分かれが見える。だがここにあるのは、あたかも雷が大地を感光板にしたかのような、瞬間の奇跡ではないか。電光石火のイメージ化として、物質になった雷がごろんと目の前にある。わたしはしばし時間を忘れて、黒光りするガラスの中心を見つめ続けたのだった。