relay essay|連閏記


23|不立文字

田中傳左衛門(歌舞伎囃子田中流十三世家元)


 

 歌舞伎と邦楽・日本舞踊の囃子は混同されるが似て非なるものである。我々は歌舞伎という演劇に付随するもので、朝から晩まで歌舞伎公演で上演される古典から新作までの幅広い芝居、舞踊と何でも演奏する、専従者が30名にも満たないニッチな産業といえば聞こえはいいが只の絶滅危惧種である。

 よく譜面というものが存在するのかとお尋ねをいただくが、いわゆる西洋的なscoreや、能楽の八つ割のような懇切丁寧なものは存在しない。
 ある程度演劇的なセリフの流れや演技の約束事、曲の流れや内容などを理解しているという前提で書かれた附帳(つけちょう)という記録程度の不親切なパート譜があるだけで、専従者でなければ殆んど用をなさない。

 田中流は私が十三世とはいえ別にどうということはなく、関東大震災と太平洋戦争の戦災と二度家が焼かれて、道具(楽器)類は多少疎開させてはいたものの紙の資料は殆んど残っていない。紙に書かれた資料は調査・研究対象にもなるのでもちろん貴重ではあるものの、それを失った先祖を責める気には全くならない。江戸っ子として震災での帝都の混乱ぶりは深く傷ついたことであろうし、まして先の大戦では日本国中が焦土となり敗戦を迎え、自分たちの暮らし、何より国自体がどうなるのか見当もつかず、言ってしまえば歌舞伎どころではないという心情であったことは察せられる。

 つい先年、コロナというものが世界を席巻し日本でも罹患者が出始めたと噂されはじめ、満員御礼が通常運転だった歌舞伎座からも少しずつご見物が減りはじめ、遂には緊急事態宣言が出て興行が中止となり、自分はともかく弟子達の先が全く見通せなくなった時の落胆の感覚は恐らく先祖をはじめ先人達が戦災で経験したものに近似していたかと思う。

 ちょうど歌舞伎座裏の事務所をリフォームし書斎を作ったところだったが、休業中の事務作業の必要に迫られほぼ連日出勤していた。

 緊急事態宣言を受けた銀座は人通りもまばらで殺風景な街であったが、区民の生活が困らないように専門店だけは対策の上での開業を要請されたとやら、パンは木村屋、魚は王子サーモン、肉は吉澤、果物は千疋屋と名店が頑張っておられ隣の薬屋のマツキヨにはこんな時でも大挙してスーツケースを転がして化粧品など買い占める逞しき外つ国の方々、お前らのせいだろうと怒鳴り散らす男性客、裏通りには盗っ人と思しき二人乗りフルフェイスのバイク、辻々にはこっそり弁当を売る店、応援したいとこっそり購入する客、黙認する人々など、かねて愛読していた文豪達の日記や先人達から楽屋話で伺った戦中戦後の混沌同様の光景が眼前にあった。

 先祖や先人達なら何をなさるか空っぽの書斎で考えたが、後世の演奏家やこのまま歌舞伎が無くなっても研究者の一助となるようにひたすら記録や譜面を書くことであることに気付いた。不肖若年ではあるが歌舞伎座の立鼓(囃子の責任者)になったのが1993年の高等科2年生時、殆んど平成の御代と重なり、古典歌舞伎も新作歌舞伎も舞踊も膨大な舞台数をこなしているが、多忙にかまけて清書をする機会を失っていた。

 音源や映像のデータ化など自分が苦手なことは門弟達に分担してもらいつつ机に向かう。
 10代の、立鼓に就任したばかりの頃に書いた譜面の字のなんと稚拙なことか、そういうものは後世の混乱のタネなので世の中から消し去りたい、こういう機会でこそアップデートできるとひたすら書いた。膨大すぎてコロナ休業中では結果足りず現在も続いているが、書き上がったものは秘蔵せず、弟子達にデータで共有してもらい、他流派でも欲しいと思った人はどうぞというスタンスにしている。平成から令和の三十数年に多くの偉大な名優、名人達とご一緒させていただく機会を得たが、その方々の記録でもある。

 が、「教外別伝不立文字」という禅語の通り文字に出来ない口伝が重要な世界でもある。或る名優は映像で残され、私にもその方法を強くお薦めくださった。
また昨年急逝した父で能楽大鼓方の亀井忠雄(人間国宝・日本藝術院会員)は緊急事態宣言中の舞台がない時も通常と変わらず母屋でひたすら附を書き、独り稽古場で正座し何時間も謡い、大鼓を締めて打ち、舞台と同じように摺り足で歩く稽古を亡くなる前日まで一日も欠かさず、一生勉強という字面だけ安易に口にしてしまいがちなことを黙って姿で示してくれた。

まだまだ道は遠い。