relay essay|連閏記


22|1632 ─ デルフト、フェルメール、スピノザ

國分功一郎(哲学者)


 

 今年の7月、哲学の学会に参加するためにオランダ南部の小都市、デルフトを訪れた。中心部はまさしくヨーロッパの古都と呼ぶべき町並みを残しているけれども、オランダの首都機能を担うデン・ハーグに隣接し、また、学会が行われたデルフト工科大学建築学部は世界でもトップクラスに位置している。歴史と現在性の同居を感じさせる魅力的な場所だ。
 これまでもオランダを訪れたことはあったが、デルフトは初めてだった。そして以前から私はこの都市に特別の思いを抱いていた。
 私が研究している哲学者スピノザが、オランダのアムステルダムで生を享けたのは1632年のことである。実は同じ年に、デルフトで有名な画家が生まれている。日本では「真珠の首飾りの少女」でよく知られるヨハネス・フェルメールである。
 1632年は奇跡のような年である。同じくデルフトに、この年、顕微鏡による微生物の観察で知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが生まれている。イギリスではスピノザと並ぶ大哲学者、ジョン・ロックが生まれた。また、最近知ったことであるが、フィクション内の人物とはいえ、ダニエル・デフォーが創作した、かのロビンソン・クルーソーも1632年の生まれだ。
 1632年とはつまり17世紀の初頭である。では17世紀とはいかなる時代か。それは現代にまで続く様々な営みや制度が始まった時代に他ならない。近代主権国家が形作られたのは17世紀半ばのウエストファリア条約においてである。近代の哲学がデカルトによって開始されたのも17世紀。今名をあげた人物たちから10年遅れの1642年に生まれたアイザック・ニュートンによって近代科学が創始されるのもこの世紀。また『ロビンソン・クルーソー』は最初の近代小説と言われている。つまり17世紀とは近代が始まった世紀に他ならない。
 閑話休題。スピノザとフェルメールの間に関係があったという証拠はないのだが、レンズ磨きをして生計を立てていたスピノザのレンズがフェルメールの絵画制作において利用されたのではないか、スピノザの1666年の書簡が宛てられたヨハネス・ファン・デル・メールなる人物は実はフェルメールではないのか(確かにそれはフェルメールの本名である)という憶測がなされている(詳しくは拙著『スピノザ──読む人の肖像』第二章をご参照いただきたい)。
 何も証拠はない。ただ、フェルメールの光あふれる絵画は、スピノザの喜びの哲学とどこか通じるところがある。そういう印象もあって、私は10年以上前に最初の著書であるスピノザ論を出版するにあたり、表紙絵としてフェルメールの「小路」(The Little Street / Het Straatje)を編集者から提案された際、一も二もなくこれを承諾したのだった。

 私にとってデルフトはフェルメールが生まれた街であり、そして自分の初の著書に使わせてもらった「小路」が描かれた街でもあった。最初に述べた特別の思いとはこのことである。
 さて、「小路」はデルフトの街のどこかを描いたものだと考えられてきた。ところがなんと近年、ある研究者がこの絵画が描いた場所を正確に特定することに成功した。2015年のことである(「小路」の英語版ウィキペディアに事の次第が簡潔に記されている。https://en.wikipedia.org/wiki/The_Little_Street)。
 私は今回、その場所を訪れることをとても楽しみにしていた。そして実際に訪れることができた。現状は驚くほど絵と似ていた。こんなことがありうるのだろうか。400年近く前の小路がそのまま残っているとは!
 私は途方もない感情の中にいた。フェルメールはもしかしたら、スピノザと知り合いであったかもしれない。そのフェルメールは水路沿いのこの道を歩いたことがあったのだ。そしておそらくは水路の向こう側の建物からこの建物を描いた。その建物の佇まいが今もなお残されており、いま私の目の前にそれがある。
 17世紀は近代が始まった世紀であると述べた。私にはこの建物の佇まいが、400年に及ぶ近代の目撃者であるように感じられてならなかった。近代史に見いだされるいかなる出来事が起こった時にも、この場所にこの佇まいがあった。それは400年の時を経て私たちのもとに届けられている贈り物であり、この贈り物によって、私たちは、近代という歴史について改めて考えることを求められている。そんな気がしたのである。


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