relay essay|連閏記
14|稽古は忘却
安田登(能楽師)
日本の芸能では練習をしない。「稽古」をする。
稽古は練習とは違うし、むろんレッスンとも違う。そして、おそらくは「お稽古」とも違う。では、稽古とは何なのだろう。そんなことを考えてみたい。
「稽古」という語は五経のひとつである『尚書(書経)』の「堯典」や「舜典」の「曰若稽古」を出典とする。「堯典」・「舜典」は、古代の聖王、帝堯や帝典の事跡を書いたものだが、たとえば「堯典」ならばその冒頭近くに「曰若稽古帝堯」という章句が現れる。
これは「曰若(ここ)に古への帝堯を稽(かんが)ふるに」と読まれる。ここから「稽古」というのは「古へを稽ふる」と訓じられ、「いにしえの道を考える」行為だと言われている。しかし、そんな甘いものではないと私は思う。
拝礼のひとつに「稽首」という礼がある。礼にはいくつかの種類があるが、これはとても古い拝礼で、西周の青銅器の銘文(金文)には「拝稽首」という語で現れる。これは地に頭を付ける礼だ。いにしえの道に対して、地に頭を付けるほどの拝礼をする、それが稽古だ。
が、これでもまだ稽古の本質には迫っていない。
中国古代学者の加藤常賢氏は「曰若稽古」の「ここに」と読まれる「曰若(えつじゃく)」に注目した。そして、数多の甲骨文や金文を渉猟して、曰若とは天文に詳しい神職者であると解いた。特に「若」は、神が憑依したシャーマンを意味する文字であり、また神を表すこともある文字という(「王若曰攷」)。
そのような聖なる者がするのが「稽」という行為ならば、これは単なる「かんがえる」ではないし、ただ地に頭をつける拝礼だけでもないだろう。シャーマンである『尚書』の曰若が帝堯の事跡を述べる時に、彼はあるいは帝堯に憑依され、あるいは帝堯のいます天空に飛翔して、その言葉を述べたのであろう。我が国の神功皇后が神に憑依され託宣をしたように、あるいは中国古典の「離騒(『楚辞』)」の主人公である霊均が天帝に逢いに行くために天空を旅したように。
そのように神霊と接続する行為、それが「稽」なのではないだろうか。ちなみに『源氏物語』には「宿曜の賢き道の人(星占いの名人)にかんがへさせたまふ(「桐壺」)」という文があるが、ここの「がんがへ」は占いをすることであり、やはり神霊と接続する行為である。
また稽古の「古」を、加藤氏は頭蓋骨を模した兜の形だという。兜は堅い。だから、古を口で囲めば「固」になる。そして、固いものは不変であり、過去も不変であるから「古い」という意味になる。
稽古というのは、そのような不変なものに対して地に頭をつけるほどの拝礼をし、さらにその不変のものの深奥に流れる神霊的なものとの接続をする行為なのだと思う。神霊という言葉があまりに古代的ならば「無意識」といってもいいかもしれない。
神霊や無意識と接続する行為が稽古ならば、なぜそのようなことが可能だろうか。それは稽古の中に、あるシステムが組み込まれているからだ。そのシステムとは「忘却」である。
何らかの稽古をした人ならば、その不親切さに戸惑ったり、腹が立ったりした経験があるだろう。稽古ではメモや録音を許さないことが多い。せっかく稽古をしても、帰り道にはほとんど忘れてしまう。こんな不親切なことはない。しかし、それは稽古というものの中に最初から忘れるということが組み込まれており、そして、忘却したものは自分の中のリソース(無意識)で埋めることが求められるからだ。
情報学者の池上高志さんからの依頼で、オルタというアンドロイドに能の動きを教えたことがあった。その際、池上さんから「途中でやめて、そのあとオルタがどのような動きをするかを実験したい」と言われた。中途半端でやめた場合、その動的な空隙をAIがどう埋めるかの実験をしたいというのだ。
AIもアンドロイドも、まだ完璧なものではない。そのときに次のような思考実験をしてみた。完璧なAIを持ち、そして各関節にも完璧なプロプリオセプター(固有感覚受動器)を埋め込んだ、これまた完璧なアンドロイドがいたとする。彼/彼女を「オルタX」と名付けよう。「アンドロイド」のオルタXと「人間」である私が、師匠から稽古を受ける。するとどうなるか、という思考実験だ。自分が受けた稽古では、メモも録音も許されなかった。その再現をする。
人間である私がオルタXに劣る点はふたつある。ひとつは忘却、もうひとつは疲労だ。師匠から2時間の稽古をつけてもらう。私はおそらく30分を過ぎたあたりから疲れてくる。最後の方は、体も頭もほとんど働いていない。そして帰り道。今日の稽古を思い出そうとしても、ほんの15分くらいのものしか思い出せないだろう。
数日後、師匠の前に出る。「前に教えたものをやってみろ」と言われる。あまり思い出せない。黙っていると「早くやれ!」と怒鳴られる。仕方なく、うろ覚えのものをする。「ダメだ!」とまた怒鳴られる。
オルタXがする。オルタXは完璧にできる。羨ましい……。
そんなことを五年、十年繰り返す。すると、自分の中に蓄積ができる。無意識のリソースから引き出したもので、まあまあ見られるものができるようになる。稽古で教わったこととは完全に同じなものではないけれども、「ダメだ!」とは言われないものができてくるようになる。
オルタXはといえば、常に師匠とそっくりのことができる。しかし、師匠も常に成長している。だからオルタXは常に「師匠-1」の状態だ。そんなとき、師匠が突然亡くなってしまったらどうなるか。オルタXの成長はそこで止まる。つまり、オルタXは「(最後の)師匠-1」の状態で止まってしまうのだ。
では、人間である私はどうかというと、そこから「有主風(うしゅふう)」への道が始まる。有主風というのは主体性のある芸風をいう。師匠とそっくりの主体性のない芸風は「無主風」だ。それに対して有主風は師匠とは違う、その人独自のものだ。しかし、それはいわゆる「個性を出す」などというのとはまるっきりと違う。出そうなんて思わなくても、自分の蓄積されたリソースから自然に溢れだしてくる、それが有主風だ。
先ほど神霊を無意識と言い換えた。無意識はたとえれば大海である。そして神霊は宇宙である。大海と宇宙とが似通っているように、無意識と神霊とは似ているだろう。稽古によって蓄積されるリソースは自己の内部(大海)に留まらず、外部(宇宙)に溢れ出て集合的なものたらんとする。
これが稽古をつける(教える)という行為なのだろう。稽古の「古」とは不変のものの深奥に流れる神霊的なものと書いた。師匠は、その溢れ出る集合的なものの媒介者だ。だから、師匠その人をカリスマ化してはいけない。稽古を受けるときに、私たちが拝稽首するのは人間としての師匠ではなく、その背後にある不変の神霊的なものだ。
そして、それは師匠の中よりも、むしろ自分の中にある。師匠の真似に十年〜二十年は費やす必要があるだろう。しかし、それから向かうのは自分である。「うまくなろう」などと思うのは愚かである。それよりも熟成を俟つ。
だから、日本の稽古では「上達」ではなく「熟達」を目指す。自己の深奥への旅、それが稽古なのだ。
トップ画像:『二曲三体人形図』より
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