旬画詩抄|佃 一輝
7|蝙蝠 福が来ると言うけれど
中華料理屋で時折見かける天地逆さまの蝙蝠のデザイン。あるいは逆さまの「福」の文字。幸福は天から授かるもの、「天命」のひとつに他ならぬという思弁の具体化だ。比較的知られていることだが、蝙蝠は幸福を寓意している。もちろん「蝙蝠」の「蝠」の字が「福」と同じ発音であることによる言葉遊び。シャレと言えばそれまでだが、具象化出来ない観念や感情を、漢字の音通で実体化することは、中国人以外にはちょっとない発想だ。漢字圏の日本人も、ここまでは真似出来ないでいる。真似出来ないからこそ、この「旬画詩抄」も成り立っている。前回の蓮=恋も同じ謎解きであった。さてその「福」は、天から降って来るのだという。だから逆さまの「福」の字。「福」である蝙蝠も、逆さまにぶら下がって生きているし、逆さまに飛び降りて来る。
高橋竹年描くこの蝙蝠も、ただ一匹、天空から下に向かって飛ぶ。まさに「福天来」。細い本紙の上部に、ただ一匹だけの絵画。ほかには何も描かない。描かないけれど、晩夏か秋の夕暮れ、あるいは夜であることは瞭然だ。ロケーションを何も描かずに季節と時を特定するのは、東洋絵画の独壇場。まことに素晴らしい技法と言える。蝙蝠一匹で夕陽かあるいは月光か、はたまた漆黒の闇が見えている。
蝙蝠一匹。一匹? 一羽? 書いていて、ふと躊躇してしまった。おそらくは一匹。イソップ童話によると、蝙蝠は鼠が支配する世では「私は鼠」といい、鳥が世界を牛耳ると「私は鳥ですよ」と言ったとか。卑劣な人の話というより、世界関係の寓話というべきか。どっちつかずに上手く世渡りするのも「福」を得る手段なのか。ハロウィンならば「悪魔」くんだ。そしてドラキュラ伝説。西洋では幸福とはほど遠い。蝙蝠は幸福か悪魔か。
さてこの絵、細長い画面に蝙蝠一匹だけ。あまりに書き込みが少なくて、展覧会では見栄えがしない。売れそうもない。だが実は、まことに便利な作品なのだ。この軸を掛けて中華料理を食べるなら、そりゃあ幸せいっぱい! この絵の前にカボチャを置くとハロウィン! ほとんど現代アートではないか! 福にも悪にも、添える物で変幻自在に意味を変える。大阪画壇の竹年が描いたのは、自在な便利さが大阪商人のお気に入りだったからだ。何か添えて、勝手にアート出来る楽しさ。見ている人が勝手に作る物語。ただ一匹の蝙蝠だからこそ、なんとでも言える方便のアート。「勝手にアート!」が大阪画壇の一特性でもあると言えよう。
日暮空堂蝙蝠飛
日暮空堂蝙蝠飛ぶ
新涼吹上芰荷衣
新涼吹き上がる芰荷の衣
班姫団扇情難捨
班姫の団扇 情捨て難く
翻勧秋風緩緩帰
翻勧の秋風 緩緩と帰る
清朝になって新しい文学運動を繰り広げた袁枚が扇子に書きつけた詩だ。蝙蝠に団扇の取り合せ。
日暮れ。誰もいない建物に蝙蝠が飛ぶ。
涼しい風が、菱や蓮の繊維で織りなした衣を吹き上げる。
あの班姫が団扇に込めた情は捨て難く、
あえて秋風を団扇で煽ぎながら、ゆっくりと帰ろう。
夕陽に飛ぶ蝙蝠。草かんむりに支という見慣れない字は菱のこと。その菱や蓮で着物を織ることは我が国にはないけれど、例えば芭蕉布を思えばよい。その衣が秋風に吹かれている。にもかかわらず団扇を煽いで帰る人。秋なのに団扇を使うのは何故か。団扇を使うのは男か女か。蝙蝠という秋の素材に、季節はずれの団扇。この詩、頗るに謎めいている。
清朝の詩なのだから、おそらく蝙蝠=福=幸せ、というイメージは外せまい。なら当然に幸せな詩と考えるべきなのか。涼しくなって幸せ、というのか。問題は班姫だ。勿体ぶることはない。班姫とは前漢の終わり頃、紀元前60 年ごろの女性、班婕妤(はんしょうよ)だ。夫の成帝に愛された才女だが、若い趙飛燕に寵愛を奪われる。その失意の詩にいう。
新裂斉紈素 新たに裂く斉の紈素
皎潔如霜雪 皎潔なること霜雪の如し
裁成合歓扇 裁ちて成す合歓の扇
団団似明月 団団として明月に似たり
出入君懐袖 出入す君が懐袖
動揺微風発 動揺して微風発す
常恐秋節至 常に恐るるは秋節至り
涼風奪炎熱 涼風炎熱を奪うを
棄捐篋笥中 篋笥中に棄捐せられ
恩情中道絶 恩情なかばに道絶えんことを
真新しい斉の国の白練り絹
清潔な美しさは霜か雪のよう
裁断して 合歓の団扇を作りました
まん丸で二つに折れば 二人のむつごと
明月のような まん丸の団扇
あなたの袖に入って
そよかぜをおくりました
でもいつも恐れていたのは秋になって
涼しさが熱い思いを奪ってしまうのを
箪笥の中にうち棄てられて
あなた様の情が途絶えてしまうことを
秋の団扇は、もはや必要のないもの。棄てられしもの。班姫の団扇とは、捨てた男への怨み歌。それならば先ほどの袁枚の詩は、女になりかわって詠んだものか。捨てた男に向かってのひと言とも読めそうだ。菱や蓮の衣も意味深長だろう。菱の実採りも蓮の実採りも、若い女の子の朝の仕事。その女の子に声をかけるのが恋の始まり、とは前回にも引いた古代の風習だ。
そんな恋待つ女のもとに約束した男は現れず、蝙蝠飛ぶ夕暮れになってしまった。幸せな蝙蝠が飛んでいるというのに! 班姫が作った団扇のように、怨みを抱いて団扇を煽ぎ、ゆっくりと帰っていく女。なかなか凄みのある詩に見える。
だが男の詩とすることも出来よう。この詩、作者袁枚が扇子に書いて、ある男性に与えたものとある。ならばこの男、別れたい女性がいるのだ。幸せの蝙蝠が飛ぶ夕暮れ。愛で紡いだ幸せの衣が秋風に翻って、別れたがる男。「だが班姫のように捨てることは難しいぞ、いらなくなった団扇であっても、秋風であっても、まぁゆるゆると煽ぎながら帰れ」と、袁枚のお叱りのひと言とも読めそうだ。福か悪か、なんとも微妙な男女の愛憎。渾沌ですなぁ。
この軸の前に団扇を打捨てて飾れば、袁枚の詩によって、福というべきか悪と難ずるべきか、なんとも微妙な男と女の愛憎が響いてくる。理解する人がもしあるなら、あるいは恥入る人のありやなしや…。
とはいえこの詩、おそらくはそういう意味ではない。芰荷の衣とは、かつて高潔な人、屈原が着ていた着物。不正を正す志を遂げられず、ついに孤高のままに入水した高士の衣だ。だからこの詩、班姫のように皇帝に棄てられ左遷されても、秋風を団扇で煽いで、泰然として帰郷すればいいさ、という励ましの詩と言える。するとこの絵に団扇を添えて、リストラを励ます飾りが出来ることになる。
そう言えばこの絵の蝙蝠、よく見ると首筋に胡粉が塗られている。胡粉で獣の毛が余計にリアルに表現される。だが普通はこういう墨彩だけの絵に、胡粉を用いることはない。白の強調が意図されているのだろう。これは白楽天の詩に因るとすべきだ。鼠は千年生きると白蝙蝠になるという。そうして黒い洞窟で生涯を過ごし、つまらぬストレスを避けることが出来る。
一生幽暗又如何 一生の幽暗またいかん
一生暗いところにいるのも、また良いではないか、と。こらも左遷や挫折への応援歌。作者竹年の絵のテーマは、これであったのかも知れない。ならば団扇を打捨て置いて、袁枚を利かすのも宜しかろうというものだ。だがどれが正解だというわけではない。多様に妄想して「勝手にアート!」する。これが蝙蝠一匹だけの描きすぎない絵画の正解なのだ。取り合せも自在! これでいいのだ!
佃 一輝(つくだいっき)
一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。
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