旬画詩抄|佃 一輝

6|ハスにトンボ 恋の重荷


 

 風蒲獵獵弄輕柔

風蒲猟猟 軽柔を弄し

 欲立蜻蜓不自由

立たんと欲する蜻蜓 自由ならず

 五月臨平山下路

五月 臨平山下の路

 藕花無數滿汀洲

藕花無数 汀洲に満つ

 蘇東坡の友人の僧、道潜が詠んだ「臨平道中」という七絶だ。この僧、蘇東坡の左遷に反対する上奏をして、皇帝から僧籍を剥奪される。土性骨と気骨の人だ。さりながら歌いぶりは光りに充ちて明るく、何よりカラフルだ。臨平とは今の杭州にある風光の地。

 風に揺れるガマの穂 トンボが停まろうとするけれど なかなか上手くいかない

 五月の臨平山に沿う路 クリークにはハスの花がいっぱい

 五月というから新暦の六月。川にはガマが茂り、とまろうとするトンボ。とまりたいのにとまれないトンボの動きを「自由ならず」とはなかなかにうまい。ついで「五月臨平山下の路」と場所をいい、そして最後に広く見回す風景。風に揺れるガマとトンボの動きを写した点景から、一面に咲くハスの全景へ。実に見事な目線の動きだ。

 かの地でも日本と同じように梅雨時から新暦八月末まで、ハスは花盛りを迎える。わが俳諧では夏の季語だが、立秋を過ぎてトンボの飛び交う頃までを思うなら、初秋の風情でもよろしかろう。もっともトンボは、かの地では春の詩にも多く登場するから、春から秋まで長く見られて、晩夏から中秋に限る日本の風情とはいささかに異なろう。とはいえこの詩、作者の目線に沿ってトンボを見つめ、目線どおりに顔を上げるとハスがいっばいに眼前する。彼我の風土の違いなど、気にもならぬほどにリアルだ。

 小野素文が描くこの墨彩は、この詩を読んだことがあるかのように点景を捉える。詩のガマとは違って、こちらはハスの葉にとまろうとするトンボ。まさに「自由ならず」と動きを止める刹那だ。ハスの花と葉、トンボ、それにガマならぬ一本のアシ。四つの素材を組み合わせて、デザイン画にはならず、あくまで水辺の点景としての空気感がリアルに伝わってくる。まるでインスタグラムのように、水辺を切り取る目線だ。ハスにとまろうとするトンボの一瞬に、うまく出会った作者の幸運なのか。

 しかし見つめるほどに、何かちぐはぐな気がしてくる。画面全体の構成から云って、ちょっとトンボは大きすぎないか。いかにオニヤンマだとしても。そういえばハスの花と葉の位置や大きさも、現実とは言えない。ましてアシがここに一本とは。いかにカメラでフォーカスして拡大しても、やはり現場写生ではありえないショットなのだ。これはどうしたことか。

 現実風景として四つの素材が集まった瞬時の点景に見えて、実は四つの素材を再構成した絵画面。しかも装飾画やデザイン画とは違って、あくまで現実の空間に存在しているとする画面。現代の絵画ではお目にかかりにくいこの表現は、いったい何を表すものなのか。

 この作品を表具された軸ごと見てみよう。全体を赤紫の裂地で回すだけの丸表装。明朝と呼ぶ両脇の筋と軸先を白にして、すっきりとした装いだ。裂地の色はハスの花にちなむのであろう。白の明朝や軸は白いハスか。いささか艶に。いささか清楚に。初秋八月、お盆のころに掛けられたならば、供養の心が伝わるように清潔であろう。やはり仏事釈経を秘める絵なのか。

 装飾でもデザイン画でもなく、リアルに見えて現実そのものでもない斯様な絵こそが、文人画、南宗画、南画といった呼び方をする「主情主義」と「主知主義」の混在する絵画表現だ。仏事めいて、実はホトケとは縁遠い。そろそろ謎解きをしてみようか。

 ハスは花と葉と実が同時にできる。花が終えて果実が成るのではなく、花の盛りに実を結び、葉は大きく瑞々しい。そして地下には蓮根が太り連なっている。美しい盛りに子を持つ。今ではセクハラだが、古代女性が女性の理想の姿をハスに見ていたのだ。そこでうら若き乙女は、早朝舟に乗ってハスの実を取りに出る。その女の子に岸辺から男の子たちが声をかける。詩を歌いかけて気をひくのだ。もし女の子が答えて歌えばめでたくカップルが誕生する。「歌垣 うたがき」と呼んで、ハスではないが古代日本にもあった恋愛のきっかけの場だ。

 ハスは恋のはじまりなのだ。

 ハスを表す漢字は多い。蓮、荷、藕が代表的なものだ。ほかに草かんむりに函と書く字や草かんむりに間とか、萏などという字もある。これがみんな恋につながる。蓮のレンは恋のレン。同じ発音だから恋という絵には描けぬ感情をあらわすとき、蓮を描けば恋を描いたことになるのだ。荷は和と同じ音で、和合をあらわし、藕は偶と同じで配偶者、みな恋の成就の思いをあらわしているのだ。絵に感情を込める「主情主義」。それを知的な言葉遊びで表す「主知主義」。情を知的に表そうという、そもそも無謀な試みが文人たちの文人画なのだ。

 

 ではさてこの小野素文の絵には、どんな情がこめられているのか。ハスは恋。そこにとまろうとするトンボは、恋の相手に相違ない。バランスを欠くほどに大きな描写は、とまりたくて仕方のない、やるせないほどの恋の大きさなのだ。ちなみにトンボは蜻蜓とか蜻蛉とか書いて、生殖力のある人間を意味することが多い。生殖力はトンボの動きからの古代人の連想だ。するとトンボは描き手本人なのか、あるいはこの絵を見ているわれわれなのか。ともかくも恋する自分の姿がトンボそのものだ。そう思って見るとこのトンボ、どうも生々しい。

 しかし水辺には一本のアシがある。アシは芦(蘆)と書いて路という字と同音。一本の芦で一路。まっすぐな恋心を示している。と思いきや、アシは葦とも書いてアシの葉で作る小舟、波にもまれてなかなか行きつけないことを暗示する。かてて加えてアシは、蒹とか葭とか書いて、これは古代の『詩経』にのる「蒹葭」の詩によって、恋人に会いに舟で川の中洲までは行けるけれど、彼のいる向こう岸までは渡れない、と辛い思いをも意味している。するとこの絵は恋する人の思いを描き、おそらくそれはハードルの高い、辛い恋の絵だといえるのだろう。いやあるいは、この生々しいトンボのような貴方への、拒絶のメッセージなのかもしれない。いやどちらにせよ、なかなかに辛い恋。「恋の重荷」の図というべきなのだ。もちろん「重荷」は「重い恋」のシャレ、おわかりかな。さてそれならば炎天燃ゆる夏よりも、初秋にこそ掛けるに相応しかろう。あるいは中秋、晩秋に、現実のハスが茶色く枯れしおれたころ、わが恋の重荷を回顧して掛けるのもよろしかろう。

 

 和泉市久保惣記念美術館に収蔵される中国近代絵画にあるハスとトンボの絵を用いた煎茶文会をしたことがある。こちらは鴛鴦も描かれて恋は成就。まずはおめでたい。

 ところで冒頭の僧道潜の詩も、斯様な脈絡で読んでみてもよろしかろう。ガマは古来背の高い美女を寓意する。

 風蒲獵獵弄輕柔

風蒲猟猟 軽柔を弄し

 欲立蜻蜓不自由

立たんと欲する蜻蜓 自由ならず

 五月臨平山下路

五月 臨平山下の路

 藕花無數滿汀洲

藕花無数 汀洲に満つ

 風そよぐしなやかひと。そのひとと結ばれたい男。でもうまくいかない。

五月の臨平山のそばの路。素敵な恋はいっぱいある。

 

佃 一輝(つくだいっき)

一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。