書物の庭|戸田勝久


16|ダーウィンの孫娘の木版画本


Gwen Raverat、グウェン・ラヴェラ(1885〜1957) 英国ケンブリッジ生まれの画家、木口木版画家。
20世紀の英国木版画界のパイオニアのひとりとして多くの作品を制作し、現代英国版画へ大きな影響を与えた。

進化論の科学者チャールズ・ダーウィンの孫娘としてケンブリッジに生まれたが、自分では何もしない「上流階級のレディー」になるのを拒み、1908年スレイド美術学校に進学し当時としては非常に珍しいプロの女流画家となった。彼女はトマス・ビューイックなど19世紀初頭の古風な英国木口木版画を研究、独学で技法をマスターし近代的な木版画技法を確立した。

柘植など木目の細かい木材を磨いた木口に鋭利な彫刻刀で微細な線を彫る「Wood Engraving」。その本来の姿である「書物の挿絵」にこだわり、10数冊の挿絵本を作り上げている。

日本では彼女の挿絵版画作品のまとまった画集が無く、展覧会も開催されずその画業はほとんど紹介されていない。ケンブリッジでの幼少期の思い出を綴った彼女の著書「思い出のケンブリッジ、ダーウィン家の子供達」山内玲子訳だけが知られている程度だ。

英国で上梓された代表作3冊の木版画挿絵本を紹介するのだが、彼女が作る本は挿絵の数が多く、残念ながらここにはその一部しか図版を載せる事が出来ない。



子供たちのための一冊

”The Cambridge Book of Poetry For Children ”
Edited by Kenneth Grahame, with wood engravings by Gwen Raverat, Cambridge at The University Press, first edition 1932(1951)

児童文学の名作『たのしい川べ』で知られたスコットランドの作家ケネス・グレアムが古今の詩集から編集した子供のための詩のアンソロジーにグウェンが大小60点もの版画作品を付けている。
選ばれた詩はどれも普遍的な名作揃いで、子供達への素晴らしい贈り物となっている。

ケンブリッジ大学出版局による刊行。挿絵はグウェンから寄贈された木版の原版をプリンターウォルター・ルイスが細心の注意を払って刷った極めて美しい仕上がりの印刷だ。しかも限定出版ではなく時代と共に版が重ねられた。本書は1951年版。

大部数刊行の書籍印刷に木口木版画が普通に使われていた嘗ての欧州書物制作の伝統を踏襲していて好ましい。

英国風景の光と影を近代的なレトリックで彫る

 

農業の喜びへの一冊

“Farmer’s Glory”
A.G.Street, with Wood Engravings by Gwendolen Raverat, Faber and Faber London, 1934

英国で1930年代から40年代のベストセラーとなった本。農業家A.G.ストリートは、父の死去に伴い1911年英国からカナダに渡り農場での近代的な機械式農業を体験した。帰国後本書を著し、農場生活の楽しみ、苦しみと20世紀初頭の近代農業への著しい変化をユーモアと温かさを持って描く。
彼の友人だったグウェンは渾身の版画36点を制作し、この一連の作品は彼女の代表作と評価されている。
本書もまた限定版では無いが、贅沢にも全部の挿絵が木口木版の原版から刷られており、彼女の繊細な彫版技術の冴えを観る事が出来る。

カントリーヘッジを刈り込む典型的な英国田園風景

のどかな農場の光と影の見事さ

職人的では無い近代的な感性の彫り方での印影表現は後の版画家達に大きな影響を与えた

 

自分の幼い日への一冊

”The Bird Talisman” 
An Eastern Tale by Henry Allen Wedgwood, illustrated by Gwen Raverat. Faber and Faber London, 
Printed at the University Press Cambridge, 1939

縁戚関係にあたり陶器で名高いウェッジウッド家とダーウィン家に伝わる宝物として公刊されていなかったお姫様と鳥との会話を可能にする魔法の指輪の東洋の童話を彼女の大叔父が子供達のために書き残していた。その文章に一族の思い入れを込めてグウェンが絵本にして刊行した。

本書の挿絵の特徴はなんと言っても美しい色刷り版画。55点の挿絵版画中8点が赤、青、黄土、黒の4版刷りで、色彩効果を考えた見事な仕上がりを見せている。モノクロが通常だった木口木版の多色刷りもグウェンが開拓した世界だ。

魔法の指輪で鳥語を理解出来るようになった姫

夜の光の素晴らしい情景

三角形の挿絵の緊張感あるレイアウト

本文活字部分への冒険的な挿絵の食い込み

閉鎖的なビクトリア朝の少女時代から飛び出し、プロの画家として一家を成したグウェン・ラヴェラ。
同時代の作家ヴァージニア・ウルフとも親しく付き合い、お互い刺激し合って成長し、女性が自由に生きにくい社会でそれぞれ独自の仕事を残した。

日本ではヴァージニア・ウルフ程の知名度が無いグウェン・ラヴェラだが、その仕事は真摯で完成度は非常に高く、いつか東洋の島国でもきちんと紹介され評価される時期が来る事を願っている。


ラヴェラ関連書籍

ヴァージニア・ウルフとラヴェラ夫妻の交流についてラヴェラの孫が往復書簡を研究し刊行したもの、2003年刊

ラヴェラ著のケンブリッジ回想記、1990年刊

没後刊行された唯一のラヴェラ版画集、この本の図版も全て原版から刷られた理想的な版画集、1959年刊


戸田勝久(とだかつひさ)

画家。アクリル画と水墨画で東西の境が無い「詩の絵画化」を目指している。古書と掛軸とギターを栄養にして六甲山で暮らす。