書物の庭|戸田勝久
12|アール・ヌーヴォーの残照の挿絵本
東京の国立駅近くに在った洋書店「銀杏書房」。
海外の珍しい挿絵本を集めておられた女性店主の元に1980年頃から上京の度に伺い、お話を聞きながら欧米の挿絵本とその歴史を理解していった。
1983年6月24日、店の奥の棚にあった古風な書体の背文字に惹かれて手に取ったのがこのウィリー・ポガニー画の『ローエングリン』。頁を開くと中世写本のようなレタリングの本文に沢山の挿絵が入った豪華な英国の書物だった。
全く未知の素晴らしい画家に出会えた嬉しい日となった。
ハンガリー人画家ウィリー・ポガニー(1882年-1955年)は、ブダペスト、ミュンヘン、パリで美術を学んだ後ロンドンに渡り、英国挿絵本黄金期に『老水夫行』(1910)、『タンホイザー』(1911)、『パルシファル』(1912)『ローエングリン』(1913)などの代表作4冊を残した。
10年間の英国生活の後、1914年に米国へ移住し、メトロポリタンオペラの舞台意匠デザインやハリウッド映画界でアートディレクターとして活躍し、多くの挿絵本を残して1955年ニューヨークで73歳の生涯を終えた。
本書は、ワグナー作の最後のオペラ「ローエングリン」をアイルランド人作家ロールストンが散文に書きなおしたテキストにポガニーがロマンティックな挿絵とアール・ヌーヴォー調の装飾を描いて、大人のための豪華絵本に仕立てている。
ハラップ社は、1900年代初頭にアーサー・ラッカムやハリー・クラークなどの挿絵で「Books beautiful 」シリーズとして次々と豪華な美しい挿絵本を出版していた気鋭の版元。
ポガニーはロンドン移住後、ハラップ社に見出され、このシリーズに参加し一躍売れっ子挿絵画家となった。
本書は全てポガニーの手書き文字と装飾、挿絵で満たされており活字は一切使われず、中世の写本の趣がある。
背文字と題扉に「Presented by Willy Pogàny」と記されて、単なる挿絵仕事では無く、全体をプロデュースしたと言う彼の矜恃を示している。
ポガニーの原稿は本文レタリング、水彩画、モノクロペン画とカラー鉛筆画で、それぞれに相応しい当時最高の技術で印刷された。
ペンで書いた本文はオフセット印刷、水彩画は4色カラー印刷、ペン画と装飾も色分けした版での多数回刷り特色オフセット印刷、鉛筆画は石版画と同じように色別に版を描き、それぞれの色版を重ねてオフセットで刷り、柔らかな石版画の風合いを見事に再現している。
ハラップ社の挿絵本は、通常本文は旧来の活字凸版で刷り、水彩画挿絵を高価な最新カラーオフセット印刷で刷り、挿絵の頁に貼り込んでいた。
本書は全頁が平版方式で印刷されており、ビアズレー時代のような凸版の圧で紙面が凹んだ部分は存在しない。20世紀初頭に登場した印刷技術による書物制作の新しい世界がここにある。
1904年に米国で紙へのオフセット印刷機が開発され、それから9年後に制作された全頁オフセット印刷の中世物語。
最新の技術を駆使して中世風の書物を作り上げたポガニーは、第一次世界大戦勃発を機に米国へ渡り、ハリウッド映画という新しい世界に入って行った。
19世紀末の挿絵印刷は、旧来の木口木版画や銅版画から写真製版のライン・ブロックの凸版印刷に移行して来た。
オスカー・ワイルドの『サロメ』のビアズレーの挿絵は凸版で刷られた産業革命時代の印刷見本だと言える。
20世紀に入り、微妙な色彩の水彩画を見事に再現出来る4色分解網点カラーオフセット印刷が開発完成された。
1910年代のG.G.ハラップ社は、最新技術による見たこともないカラー挿絵付きの美しい本を次々に出版し、英国挿絵本の黄金期を牽引した。
戸田勝久(とだかつひさ)
画家。アクリル画と水墨画で東西の境が無い「詩の絵画化」を目指している。古書と掛軸とギターを栄養にして六甲山で暮らす。
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