書物の庭|戸田勝久
11|風流詩人の随筆集
詩人 岩佐東一郎、号「茶烟亭」明治38年〜昭和49年(1905〜1974)東京日本橋生まれ、堀口大学、日夏耿之介に師事、昭和4年法政大学仏文科卒。処女詩集は大正14年『ぷろむなあど』、生涯に9冊の詩集と1冊の句集『晝花火』と7冊の随筆集を出した。詩友城左門と共に雑誌『文藝汎論』を創刊し、昭和6年から19年まで運営され戦時下の詩人たちの集う場となった。
近頃「モダニズム詩人 岩佐東一郎」を知る人が少なくなった。
私が初めて彼の詩集に出会ったのは、昭和52年大阪梅田の古書肆浪速書林で手にした美しい装釘の詩集『神話』(昭和8年刊)だった。
軽やかなポエジーとウイットに満ちた詩法が私の好みに合って彼の著作を蒐めるようになった。
ところが岩佐の著書は新刊書には全く無く、文庫本にも成っていなかったので、かつて出された古書を探すしか無かった。そんな中、この『茶烟亭燈逸伝』に出会った。
詩人や小説家は、自身の文章を出版する時、その着物というべき「装釘」に関して一家言を持ち細部にまで気を配る人が多く、彼もその一人だった。
堀口、日夏という稀代の愛書家を師にもち、多大な影響を受け、ひときわ書物の姿にこだわる詩人と成り、美しい本をこの世に遺している。
この詩人の35歳の随筆集『茶烟亭燈逸伝』は普通本と特装本の2種類が作られた。版元の書物展望社は造本にこだわった出版社で大抵の出版物には凝った特装本がある。
特装本にはそれぞれ番号が記されていてこれは「1號」という特別なものだ。限定番号「1」の本を持つのは著者である事が多いが、巻頭に朱筆で描かれた岩佐自筆の献辞には「著者より 斎藤昌三氏へ」とあり、この版元の慣例により著者が持つべき1号本を版元主人に献呈している。書物展望社主の斎藤氏は「書痴」として業界で知られた装釘名人だった。
人一倍書物の装いにこだわりを持った岩佐、斎藤の両氏が握手してこの本の誕生を喜んでいる光景が浮かんでくる。
その解説には岩佐が巳年生まれだと知った斎藤が背と角に沖縄のハブの革を使い、表紙には鱗状に見える和紙を使って彼の干支を寿ぎ、さらに雅号の茶烟亭に因んで「天金」ではなく「天茶」にしている。挿入の著者写真は、有楽町日劇横舗道上で「街頭スナップ写真屋」が撮ったものだ等と、この原稿でしか知り得ない情報が嬉しい。
文末には『昭和戊申新春 為尾上蒐文洞氏」と記され、昭和43年(1968)春に当時大阪天牛書店の大番頭で書痴、本目利きとして関西古書業界に知られた「蒐文洞」こと尾上政太郎氏に宛てたものだと知れる。
さらに本書には、昭和42年の古書市「明治古典展覧大入札会」の落ち札が付いているので、原稿は尾上氏が明治古典会で落札した後、著者に本書の由来を尋ねた返事かと思われる。
蒐文洞、尾上政太郎氏(明治44年〜平成4年)は本好きが嵩じて、戦前、大阪周防町筋に古書店を開き、昭和18年心斎橋大丸一階で古書部を立ち上げ、大阪大空襲で周防町筋の店舗が焼失、昭和30年頃天牛書店に入られた。
古書に関する膨大な知識と鬼気迫る書物蒐集への執念は凄まじく、数々の逸話が残されている大阪を代表する伝説の古書人である。
本書はご自身の蒐文洞愛蔵本書目(昭和56年刊『紙魚放光-尾上蒐文洞古稀記念』220頁)に載せられているので、崇拝していた版元社主斎藤昌三への熱い想いから商品としての古典会での落札では無く、自身のコレクションの為だったことが解る。
著者と書痴の版元社主と書物愛に溢れた古書人の3人が絡み合い、世界で一冊の書物が出来上がった。
古書が彷徨った時代と共に書き入れやさまざまな物が付随し、興味深くその書物の旅の旅程を教えてくれる。
それぞれ美しい衣を着た詩人の仕事。
戸田勝久(とだかつひさ)
画家。アクリル画と水墨画で東西の境が無い「詩の絵画化」を目指している。古書と掛軸とギターを栄養にして六甲山で暮らす。
< 10|画家と作家が描いたこどもの情景 を読む