relay essay|連閏記
30|人生、暇がいい
原島 博(情報工学)
いまから思うと不思議なことだった。15年少し前に大学を定年で退職して、その前と後で僕の人生が変わった。何が変わったのか。
定年前は僕のスケジュール帳は真っ黒だった。真っ黒でないと落ち着かなかった。なぜか。白いところがあると、世の中から取り残されている気がした。見放されている気がした。もう僕は役に立たなくなっているのではないか。これからずっとスケジュール帳は白いままになるのではないか。いまから思うとそのような恐怖感があったのかもしれない。
それが定年後にはなくなった。そうなるためには1年くらいかかったけれど、確かになくなった。逆にスケジュール帳が白いと嬉しくなった。自分が自由に使える時間がこんなにある。それが嬉しかった。その自由な時間に具体的なことをしたかったわけではない。世間的に言えばそれは暇な時間であった。でも、その暇な時間がいい。その時間がたっぷりあったら、きっと何か想像できないことを始めるだろう。それは何だろうか。期待でわくわくした。
そのようなときに、新聞で心に残る言葉をみつけた。「人生はな、冥土までの暇つぶしや。だから上等な暇つぶしをせにゃあかんのだ」。作家でもあり天台宗の僧侶でもあった今東光が、雑誌の編集者につぶやいた言葉である。そうなのだ。人生は暇つぶしなのだ。
よくわからなかったけれども面白かったのは、それが「だから上等な」と続いていたことである。なぜ「だから」なのだろう。暇つぶしなら、何をしてもいい筈なのに、なぜ「上等な」なのだろう。どうせ暇だったので、そもそも暇とは何かをネットで調べてみた。これを読んでいる方は何を今更と思うかもしれないけれど、僕にとってはびっくりする発見があった。それは「暇」という漢字の成り立ちであった。
それは図にあるように、「削りとられた崖に隠された未加工の玉を両手で探りあてる日中の時間」という意味だった。目からうろこである。「暇」は、隠されている大切なことをする時間なのだ。自分にとって大切な時間だったのだ。だから上等な暇つぶしをしなければあかんのだ。
そうであるはずなのに、世の中ではどうなのだろう。暇は仕事の間にぽっかり生じた時間で、その暇を持て余す人も多い。「暇つぶし」も辞書には時間を無駄に過ごすこととある。その無駄は、役にたたない余計なことを意味する。確かに「とんだ暇つぶしをしてしまった」という言い方もある。
なぜそうなるのだろう。仕事を第一に考えるとそうなるのだろうか。せっかく暇な時間が与えられたのだから。それを仕事に役立てなければと思うのだろうか。休日もせめてしっかり体を休めなければ、明日からの仕事に差し支えると思うのだろうか。
上で述べたように「暇」は、もともとはそうではないのだ。暇な時間は、休む時間ではない。働くことが第一で、そのためにエネルギーを貯める時間でもない。むしろ、自分にとって大切なことをするためにあるのが暇な時間なのだ。仕事がまずあるのではなくて、暇な時間が本来の時間で、それを経済的にも安心して確保するために仕事で働く。それが本来の人生なのだ。
このように考えると、定年後のいまが人生の一番いい時期だとつくづく思う。定年まで一所懸命働いてきたから、人生で最も大切な暇な時間がいま与えられている。だからこそ残されたわずかな人生を「上等な暇つぶし」をして過ごそう。
これからどのような暇つぶしができるのだろう。そのような時間があるだけで、まさに人生丸儲けである。ありがとう。