relay essay|連閏記


3|「仮象」と生命 —アレクサンドロス大王の「貨幣」からウクライナの「黄金のトルク」まで—

鶴岡真弓(ケルト芸術文化史、多摩美術大学美術館館長)


 

角を出す人間


ふつう、人間の頭には「角(つの)」はない。が、たまに生えるときがある。カッと憤怒すると、「角を出した」と周りから囃(はや)される。大人気なく、中途半端な「怒角」など、さっさと引っ込めるに限る。
しかしそれは一方で、平凡な人間にも、一瞬であれパワフルな超越的「獣性」というものが出現する証であり、人のエネルギー、血の気は、やはり「頭部」に上昇し沸騰するとき、天を突くほどのパワーとなるということを示してもいる。そのとき「角」という熱された仮象にして、同時に生命そのものとして目撃されるのだ。

 

図1:ミケランジェロ「モーセ像」部分 ローマ サンピエトロ大聖堂ユリウス二世の墓廟1513-15年

神話や歴史上、角を生やした偉人といえば、長い被支配の歴史にあったイスラエルの民を導いたモーセや、アレクサンドロス大王(前356-323年)がいる。
モーセの角は旧約聖書「出エジプト記」(34:29-30, 35)の記述からもその存在の「光輝き」の象りであるという解釈がある。

一方、アレクサンドロス大王は、まことの「動物の角」を戴いている姿でイメージ化された。マケドニアからインドをめざし、東方世界では「イスカンダルの双角王(ドゥル・カルナイン)」と呼ばれていたように、である。

この角付きの頭部(ヘッド)は、死後もヘレニズムのコインに盛んに刻まれ続けた。王が生きた社会/世界の「生命」を支えた唯一無二の図像である。

 

図2:「アレクサンドロス大王の頭部」銀のテトラドラクマ 前242/241年 大英博物館蔵

大王が生やした角は、オリエントやインド=ヨーロッパ語族に共通の「農耕牧畜社会」には無くてはならない豊かさの保証である「牡牛」や「羊」の角である。それは「牧畜」において家畜を太らせ無限の食糧をもたらしてくれる「コルヌコピア=豊饒の角」であり、また「農耕」をつつがなく営ませる月の満ち欠け=生命の周期を約束し導く三日月のアナロナジーでもあった。

それを大王自らが頭部に戴き続ける限り、人々は飢餓に襲われることはない。現実には大王はバビロンに還幸後、熱病にかかり32歳の若さで崩御した。しかし大王死すとも、この頭部図像は、貨幣に鋳造され続けた。

このテトラドラクマのコインは、死後1世紀も後のものである。

即ちここに、「イメージ=仮象」と「リアリティ=現実」の相関における豊かな逆説の模範がある。

大王の図像(アイコン・シンボル・イメージ)は、「人間」が生き続けているから、存続しているのではなく、その逆なのだ。大王の仮象であるこの「図像」が生き続けている限り、人間/社会はこの像に命を支えられ生き延びられたのだ。

いにしえからおこなわれてきたように、今日、貨幣の意匠・図像も、君主や偉人の「頭部(ヘッド)」の像=イメージを掲げて、その紙(紙幣)や金属(貨幣)の交換価値を国が保証している。文字通りその国の偉大な「ヘッド」だった人物のイメージが、リアルな刻々の生の証文となっている。そしてまた、そのはたらきは、「人間」の肖像でなく、「建築」の図像でも「工芸品」でも同じで、要はその国・民族・文化にとってかけがえのないイメージ・図像・仮象が必須なのである。今日のユーロの紙幣や貨幣がそうしたデザインを掲げて現代を「生きている」ように。


ウクライナの黄金のトルク


今、戦禍のなかにあるウクライナの都キーウ(キエフ)にも、この国の命を支えてきた文物がある。

かつて20世紀の冷戦の終焉直後、私は日本から引率講師として、そのウクライナ歴史文化財(宝物)博物館の展示室で、参加者のみなさんに拙い解説をさせて頂いたことがある。もちろんそのとき町は平和であり、博物館も聖ソフィア大聖堂(1037年建立)も永遠にそこに建っていると思われた。

いくつもの展示室で、私たちの目の前に、数々の黄金の宝物が現れた。それは2800年以上前ここを故地とした、彼らの祖のひとつ、ユーラシアの遊牧騎馬民族「スキタイ」の意匠であり、それはこの黒海北岸の広大な国が、(私の造語でいうところの)「ユーロ=アジア世界」の東西をつなぐ要であったことを証するものだ。そしてその黄金の美術は、長い時間をかけて、ヨーロッパ側の古層文化を担う「ケルト」に影響を与えた。

両者に共通する「黄金の首環」も展示されている。首環は「トルク」と呼ばれ、生命を「回す」円環や渦巻型の造形が特徴である。神々も人間の英雄も身につけた。それは「ヘッド=首」の動脈、チャクラを護る「護符」であったからである。

図3:「動物の頭部装飾のある黄金のトルク」 スムィ州ヴォルコフツィ村古墳出土 前4世紀 キーフ ウクライナ歴史文化財(宝物)博物館蔵

先端部には「動物」の頭部も表現される。正に「角」のような耳をもつ、聖なる「鳥グリフィン」も。アレクサンドロス大王もそのヴァージョンを身に着けていたと想像できる。


人々が避難する病院、劇場、学校が破壊されている。尊い命が絶たれている。もしその破壊がこの博物館にも及べば、人類が積み上げてきた「生命の象り」であるあらゆる芸術も命を落とす。

文字資料から造形美術まで「文物」とは、人間にとっての「黄金の生命」である。私たちがそれを造り直すには、更なる2800年の歳月を必要とするのである。

図版出典
トップ画像:Jozef Cantré "Pan"(1918)より
図1:モーセ像
https://en.wikipedia.org/wiki/Moses_(Michelangelo)#/media/File:'Moses'_by_Michelangelo_JBU310.jpg
図2:アレクサンドロス大王のテトラドラクマ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alexander-Coin.jpg
図3:黄金のトルク
『スキタイ黄金美術展:ウクライナ歴史宝物博物館秘蔵』図録 日本放送協会NHKプロモーション1992年