relay essay|連閏記


12|空海の故郷を訪ねる

安藤礼二(文芸評論家)


 

2023年に生誕1250年を迎えた空海に、私はいま甚大な関心を抱いている。私はこれまで折口信夫の神道、鈴木大拙の仏教、井筒俊彦の一神教など、主に近代日本思想の上で特異な業績を残してきた表現者について調査し、その成果を書物の形で世に問うてきた。三人とも広義の宗教思想を自身の表現の主題としている。しかし、アカデミズムの枠内にはとうてい収まりきらず、神道や仏教や一神教の世界に伝わる伝統的なテクストを独自の方法で解釈し直し、それらを現代の表現としてよみがえらせた。その三人が、それぞれ最晩年に至るまで、ある場合には直接的に、ある場合には間接的に、深い関心を寄せていたのが空海の営為であった。

残念ながら未完に終わるが、折口信夫は高野山奥の院に眠る空海を主人公とした小説を書こうとしていた。折口はその物語を『死者の書』の続篇と考えていた。鈴木大拙を物心両面から支えたアメリカに生まれたパートナー、ビアトリス・レーンは高野山で空海の研究に没頭していた。ビアトリスの密教は大拙の禅と表裏一体の関係にあった。東洋思想全体に及ぶ「共時論的な構造」、つまりはその基本構造を抽出しようとしていた井筒俊彦は空海の思想にその鍵を見出す。この世を去る直前に行なわれた司馬遼太郎との対談のなかで井筒は、ギリシアに生まれた哲学、その起源に位置するプラトンのイデア論の影響を空海は被っていたはずだと宣言した。空海の思想、その表現には時間と空間の隔たりを超えて、現在の世界哲学、あるいは世界文学とダイレクトにつながる可能性が秘められている。

なぜならば、空海その人が、いまだ「空海」という僧侶としての名前を得る以前、無名の山林修行者であった24歳の頃に、当時この極東の列島に流入していた儒教、道教、仏教の教えを比較する、戯曲のような形式をもった思想小説にして哲学小説、『三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)』を書き上げていたからだ。空海はフィクションを書くことからその表現をはじめたのだ。『三教指帰』は、さまざまな欲望に溺れる不良青年「蛭牙(しつが)公子」を、それぞれ儒教の教え、道教の教え、仏教の教えを体現した「亀毛(きもう)先生」「虚亡(きょぶ)隠士」「仮名乞児(かめいこつじ)」が教え諭すという構成をもっている。「蛭牙」を含め、おそらくそのいずれもが若き空海の分身ではあったであろうが、そのなかでも特に、その身一つ以外にまったく何も所有せず、異様な風体、諸国を放浪する「乞食」(乞児)として舞台にあらわれる「仮名」、名前をもたない修行者にこそ、当時の空海の等身大の姿が重ね合わされていたはずだ。「仮名」は、本文中に、自分の出自について、こう記している。「南閻浮提(えんぶだい)の陽谷」、「玉藻歸る所の嶋、櫲樟(よしょう)日を蔽すの浦」に住んでおり、いまだに思うところの何事も成し遂げられず24年の歳月が流れてしまった、と。空海の履歴そのものである。

『三教指帰』には、空海の自筆と伝えられるその原本、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』が残されている。その『聾瞽指帰』で、空海は、人名や地名にわざわざ注を付してくれている。「南閻浮提の陽谷」には「日本」、「玉藻歸る所の嶋」には「讃岐」、「櫲樟日を蔽すの浦」には「多度」と。まさに空海自身による署名である。さらにはどのような仲間たちと、どのような修行をなしたのかまで具体的に記してくれている(以下、括弧内は空海自身による注記をもとに復元している)。「阿毘私度」(阿毘法師)、「光明婆塞」(光明の優婆塞)、「雲童の娘」(すみのえのうなこおみな、おそらくは「住吉の海子女」)、「滸倍の尼」(古倍の尼)たち、と。優婆塞や優婆夷は正式な出家をしていない「私度僧」、同時代にまとめられた列島最初の仏教説話集である『日本霊異記』に記された、強烈な呪力をもった「聖」たちを意味する。修験の起源でもある。『聾瞽指帰』には、「仮名」をはじめ、そのなかに女性たちをも含んだ「聖」たちが厳しい修行を重ねた場所も「金巌」(かねのたけ)、「石峯」(いしづちのたけ)と具体的に明かされている。

「石峯」は、讃岐に生まれた空海の故郷近くにある石鎚山を指し、「金巌」は、空海自身の証言(『続性霊集』巻第九)、「空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向って去ること両日程、平原の幽地有り。名けて高野と曰う」にもとづくならば、吉野の奥深くにそそり立つ修験の根本道場、金峰山であろうと推定されている。私も、高野に登り、吉野に登り、そして石鎚に登った。そのなかでも特に、吉野と石鎚は忘れがたい。いずれも、巨大な「石」が垂直にそそり立つような山々であった。現在は鎖場として整備されているが、当然のことながら当時は、その身一つで「石」にへばりつきながら頂を目指さなければならなかったはずだ。私もまた、修験の先達たちの姿を見よう見まねして、両手と両足、そして身体のすべてを用いて、鎚のようにそそり立つ「石」を徐々に登っていった。その過程で、人間は自らの身体がもつ可能性をいまだ充分に理解していないことを思い知らされた。山岳修行とは、人間にあらためて身体とは無限の可能性をもっていることを教えてくれるのだ。吉野と石鎚はよく似ている。そう思った。

「紙本着色日月四季山水図屏風」(天野山金剛寺所蔵)、この左隻の景観は、空海青年期の四国修行の地に比定されている。画面右手の雪山が石鎚山系。トップ画像は、多度津海岸寺の海(多度津町観光協会HPより)。

その理由を納得できたのは、石鎚に登った時であった。石鎚の山頂に立つと、まさに海からの力、大陸を形成する力そのものがその山、正確には山々(石鎚山系)を生みだしたことが理解できる。日本列島をいま現在ある形にした造山運動、プレートテクトニクスの結果こそが石鎚をはじめとする険しい山々を形作り、その痕跡は石鎚から高野、そして吉野から伊勢に至るまで(最終的には長野の諏訪湖に至るまで)、列島を貫く巨大な活断層、「中央構造線」をなしているのだ。空海は、おそらくは唐から帰還した後、『聾瞽指帰』の「序」と巻末の詩をまったく新たに書き直し、『三教指帰』とした。その『三教指帰』の「序」には、「阿国大龍嶽」に攀じ登り、「土州室戸崎」に勤念する、とある。現在の徳島から高知の室戸岬に至る海岸の道を歩き続け、その先端に到達した、ということである。室戸岬こそ、大地の先端であるとともに大地がそこからはじまる場所、この日本列島がはじまる地点であった。室戸には、海底から隆起した大地の痕跡がそのまま残っている。石鎚の山頂から山々の彼方に、室戸も、高野も、吉野も、はるかに望むことができる。そしてその眼下には、讃岐の多度をそのなかに含む、瀬戸内の海が静かに広がっている。

石鎚山、金峰山、そして高野山。それらは別々に存在していたわけではなかった。いずれも、火山列島である日本列島がその形を整えた大地の造山運動、その痕跡が荒々しく残っている「中央構造線」に沿った山々であった。讃岐の多度を一つの中心とした瀬戸内の海民たちがその山々を一つにつないでいる。若き空海は、列島の生成運動の跡を訪ね、おそらくそこで自然の力そのものを感得した。それが空海の思想と表現の基盤となっている。だからこそ、空海を問うこと、その故郷を問うことは「日本」そのものを問うことになるのである。


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