旬画詩抄|佃 一輝
12|龍になった鯉─サロンのしかけ 儒教・哲学的絵画
一幅の静かな鯉の絵がある。今夏2024年8月6日ロンドン大英博物館で文會(文人煎茶会)が催された時、閉館後に特別ゲストを招いた席で用いられたものだ。江戸期における日本のサロン美術と文化をテーマとした展覧会に合わせて企画開催された煎茶会で、私自身は渡英せず、すべては息子(佃梓央)に任せたのだが、この鯉魚図を使う案には大いに賛同した。たしかにサロン美術というのに相応しい。これなら否応なく「何故?」「何が言いたいの?」と論議を呼ぶ仕掛けになる。
人と人とが集まり、煎茶を味わいながら議論する煎茶文會。そこで用いる「議論を導くための絵画」。日本におけるサロン美術の一翼には、こうした「語らいを仕掛ける絵画」が存在する。一見なんでもないこの鯉の絵に、英国の貴顕も専門家も、話し始めずにはおかれない思想と哲学が秘められている。果たせるかな当夜は、心地よい語らいの中で、美し茶を堪能したとか。
しかしこの絵を語る前に、まずは鯉の絵の代表的な画面を思い出していただきたい。そう、「鯉の滝登り」という画題だ。円山応挙や神代熊斐など、江戸中後期には大いに描かれた。手拭いの木版絵などにも登場して、お馴染みの画面だろう。
渓流を登る鮒や鯉は現実風景だが、しかし鯉が滝を登ることは、さすがにあり得ない。鮭や鱒が川の段差を登る姿をもっと大胆に想像すれば、滝登りと言えなくもないが、やはり滝は無理というものだ。だから「鯉の滝登り」は、もとより実景ではなく寓意画である。何のアレゴライズかといえば「出世」。不可能を可能とする熱烈至情の願望と努力!
鯉が滝登りに成功すれば龍になる、という。龍、つまり天下を取るような大出世!
だからおめでたい! まだ出世する前の、努力の悲壮な跳躍の姿だけれど、ともかく龍になること疑いなしのおめでた絵が鯉の滝登りなのだ。
さてでは鯉が滝登りに成功して、龍になるその変身を描いた、いわば本当におめでたい絵はないかと思うと、さすがにない。
と思いきや、あった! 天下の珍品があった!
鯉が龍に変容する瞬間を捉えた貴重なる記録! 誰も見たことのなかった神秘の刹那! 大出世、大変身の瞬時が、見事に写し出されているではないか。鯉は顔から龍に易わる、などとは誰が想像し得たであろうか……‼︎
実はこの図は1500年代末の明代末期、龍泉窯の青磁、我が国で天龍寺青磁と呼ぶ磁器に施されたものだ。硯屏という文房具に描かれている。日本では用いないが、明るく開け放った窓辺の机に置く硯に、ほこりの入るのを防ぐための衝立を硯屏という。ということは、この変身鯉図柄の硯屏は、科挙という過酷な官僚登用試験の受験生用のアイテムなのだろう。これをデスクに置いて、毎日龍に変身する自分を想像して勉強していたのだ。この変身を楽しみにして……。なんとも涙ぐましい。果たしてこれの持ち主はどうなったろう。合格して大出世して、龍となったろうか。
カフカばりにメタモルフォーゼのその時を捉えた画面は、まあこの硯屏以外にお目にかからないけれど、龍になれるかなれないかの、跳躍の力を示す鯉の滝登り図は、結果よりも過程を表してより教訓的と言えるかもしれない。
鯉の滝登り、古典に基づけば「魚跳龍門」と呼ぶ。龍門とは地名、陝西省と山西省の境の黄河壷口瀑布である。見るには西安や洛陽の龍門石窟などから車を走らせることになろうが、黄河の濁流が噴出して落ちる壮大な風景は、滝と言う語感とは違い大瀑布としかいいようがない。ともかくこの瀑布を登る魚が本当にいるのかどうか。登れたら龍になるというイメージは実景に立つと納得させられる。「登龍門」の言葉はもちろんここにはじまる。
後漢の「辛氏三秦記」の、僅かに残る文章にその黄河龍門の解説があって、後には北宋の『埤雅』という本の魚の解説にも引用されている。分かりやすく『埤雅』の方を引用すると
蓋し河津は一に龍門と名づく。
両傍に山あり、魚のよく上るなし。
大魚薄集して龍門に集い、
上ればすなはち龍となる。
原文は鯉ではなくて大魚。群れた大魚たちが上ろうとして上れない。もし上れたら龍となるのだと。大魚ですら成功の確率は低い。つまり、よほどのことがないと龍に易わることは不可能だと、不可能を前提としている。
それが何故に「出世」や「おめでた」に移行し、「登龍門」というほどに立身の未来を約束するポテンシャルの高さとするのか。ここにまた悲痛な歴史が加わる。
龍門のエピソードは、『後漢書』「党錮列伝」の「李膺」に引かれて有名となった。時は紀元160年代。外戚と宦官の跋扈する後漢朝廷の中にあって、それに抵抗する清議派の中心メンバー李膺。その李膺が認めてともに反外戚、反宦官の政治闘争をして世論を鼓舞する官僚や太学生や在野の知識人たちを「登龍門」(龍門に登る)と称し、汚辱の世を清流に導く、不可能を可能とする、世に稀な優れた人材として賞揚したのだった。龍門に登るとは、清議、清らかな議論を行う優れた政治家、知識人のことであった。もちろん彼らの教養の基礎である儒教の思想哲学によって、道徳や道義にかなうことが政治思想とリンクして、清議は正義であると看做されたのだ。
しかしやがて李膺はじめ龍門に登った清議派の精鋭たちは、宦官たちによって粛正され刑場の露と消える。そして激動の三国志の時代へ。清議派の名士たちの記憶はことさらに揚り、その名士の家門がやがて貴族となって六朝三百年が続く。ついで唐時代になると、今度は科挙合格の新官僚がそれら旧清議派貴族と対立して…と歴史は続く。新たな科挙官僚は、常に自分たちこそが教養ある清議派の精神的後裔と意識したから「登龍門」は、今度は科挙選抜の正義エリートといった感覚で自覚されていたのだ。つまり単なる立身出世ではなく、大いなる困難を超えて、龍となって天下に慈雨をもたらす志、儒教政治哲学の理想が「登龍門」に象徴されていたのだ。
するとこの天龍寺青磁の龍に変身する魚も、単に科挙合格祈願、出世願望ばかりではないかも知れない。明末動乱と退廃の世へのあくなき正義の志が寓意されている、と大上段に構えてみたくもなるのである。
とはいうものの、なんとも惚けた変容図。やっぱり出世欲望の象徴だろうか……。おそらくそんなモンだ!
さてではあらためて静かな「鯉魚図」に戻ろう。「魚跳龍門」とは真逆の、池深くに「潜む鯉」の絵。滝登りせずに何故に潜むのか。「単純にリアルな鯉の描写でしょう」「そう寓意画じゃない」「いや出世をあきらめたんだ!」「出世できない人への慰め」「人生に疲れたのさ」などなどと異見解釈に事欠かない。中には「出世出来ない作者の自己主張」なんて意見も出てくる。
ちなみに作者は杉野僲山。明治29年に東京美術学校入学だから、まだ岡倉天心が校長で、横山大観が助教授で教えていた頃だ。卒業時の明治34年には二人とも去っていたから、日本画科卒業でありながら南画のスタイルにしたのは、そうした影響もあったのかも知れない。たしかに大観ほど「出世」したわけではなく、今ではほとんど忘れられた「南画家」であることは確かだ。とはいえ出世出来ない嘆きや僻みがあるとは思えない清潔な表現だ。むしろ心境は澄んでいよう。
賛はくせのない行書で本人が書きつけている。
眼似真珠鱗似金
眼は真珠に似て鱗は金に似る
時時動浪出還沈
時時浪を動かしてまた沈む
河中得上龍門去
河中上り得たり龍門
不歎江湖歳月深
歎かず江湖に歳月深きことを
美しく気高い姿。時に世に出るけれど、また沈む。龍門に行くことも出来るのだから、巷に長い間隠れているのを嘆きはしない。
僲山自身の言葉と読みたくもなるが、中唐の章孝標の「鯉魚」詩である。この詩をもとに描いたのか、描いた後にこの詩を選んだのか。いずれにしても絵と詩は一致して穏やかだ。潜み動かぬ悠然とした姿。真珠の眼と金色の鱗。それは「龍門に上り得る」という自信に裏付けられている姿に思える。しかも龍にならず鯉のままだ。それゆえに誰も「登龍門」エリートであることに気づかない。誰も気づきはしないけれど「登龍門」の正義と徳を持っているのだという自信。
容易に想像がつくように、左遷されたか下野したかによって、世から隠棲を余儀なくされた人の、密かな矜持だろう。だがこの詩、龍の姿をしているけれど本当は龍でないものがいる、などと恨み言を呟いているわけではない。ただし、本当に龍門を上り龍になったはずなのに、「清議」そして「正義」の龍になって慈雨を降らせることをしない者がいる、という思いはあるであろう。しかしそうした社会批判よりも、自らの心を澄ませることに重きをおいている。絵の鯉もまた心澄ませてゆったりと、ほとんど動かない。
この詩この絵の基づくところは、おそらく儒教の基本文典のひとつ、四書にあげられた『中庸』の思想によるのだろう。
詩に曰く、錦にかぶせて絅(けい)をくわう。
その文(あや)の著(あら)わるるを
悪(にく)むなり。
故に君子の道は闇然として
しかも日々にあきらかに、
同じ儒教の基本文典、世界最初の詩集『詩経』にのる
錦の着物の上にうすぎぬを着る。
その模様があからさまになるのを嫌うから
優れた人の行いは、闇の中のようでいて
しかも日々に明らかになる
とあるのを踏まえている。優れているがゆえに敢えてそれを誇示しない。むしろ上からヴェールを纏って見え難くする。見え難いがゆえにかえって本当の価値が伝わる。自己アピールばかりしては本当のところは伝わらないというのだ。これ見よがしの自己アピールではなく、自分の力を信じて生きれば社会にちゃんと影響を与えるものだ、というまことにポジティブな指標。
詩に云う、潜みて伏するも、
また孔(はなはだ)
これ昭(あきらか)なり
『詩経』に云う、潜んで伏していても
はっきりと現れている
ということは、と『中庸』は続けて、だから人生投げやりになっていい加減に生きてはいけない、と釘を刺す。まことに清らかな議論!清議派の主張そのままだろう。
僲山自身はというと、この絵を描いた昭和8年(1933)は京都にいたはずだ。長尾雨山の家が室町出水上ルにあって、そこが私の祖父(佃昇玉)の京都稽古場であった。その二階に僲山もいた、というのは祖父の弟子でしかも僲山先生に絵を習っていたという故人の話の聞きかじりで、確かめたわけではない。僲山が当家に残した「サロン仕掛け」の絵の数々から思えば、それに近い事だったろう。東京美術学校創設の功労者雨山と、その出身者僲山、そして昇玉。東京出の二人が同じ東京出の巨頭の京都の一軒に世話になっている。ともに「潜みて伏する」境涯ではなかったか。
いまひとつ渡邊華山の「潜龍図」もまた「サロン仕掛け」の読み解き絵だ。水中に龍が動めく。まこと「潜みて伏する」龍だが、また「はなはだ昭らか」な描きかただ。儒教『易経』で「潜龍」といえば、「用ゆるなかれ」と書かれ、実力を充電中で表に出てはいけない時期とする。何やら屈折感が漂う気配だ。ところが上空には鶴が二羽舞う。まるで受胎告知の大天使ガブリエルのよう。将来の大成を預言祝福するように見える。華山自ら賛をして
董北苑に水石吟龍図あり
海水幅上に満ち 二鶴を作す
その義は九皋の意を取る
人の意表を出ずというべし
と述べる。10世紀の巨匠董源に「水石吟龍図」という作品があって、その絵をもとにしたという。原画にも鶴がいて、それは「九皋」(きゅうこう)の意味だという。『詩経』に
鶴 九皋に鳴き
声 天に聞こゆ
とあって「優れた人の声はたとえ隠れていても、すべての人が知るようになる」という比喩だ。
海面下の龍は「吟龍」だという。「吟龍」とは「虎嘯ぶけば龍吟ず」という「帰田賦」の言葉がもとだ。同じ志を持つ者同士が共鳴し応じ合うことを意味する。いまから天空に躍り出て唸り声を響かせ、虎と呼応して同志を呼び合うのが「吟龍」だ。
だがあに図らんや、その吟ずべき龍は「潜みて伏」した「潜龍」なのだ。「はなはだ昭らか」だが「用ゆるなかれ」で、誰も近づかない。そこで鶴が代わりに鳴いて天に声を届けようとしている! おそらく斯様な物語ではないか。
ある日、美術家のミヤケ・マイ君とこの絵を見つめた。マイ氏曰く「海の龍は三匹いる」と。私には見えないが「吟龍」とマイ氏が共鳴しているに相違ない。マイ氏は「九皋」の鶴と呼ぶべきか……。
さて僲山の鯉は「錦にかぶせて絅(けい)をくわ」える人生観の表出に違いない。自己アピールを潔しとしていない。しかし一方で志の高きを訴える。華山の龍は「用ゆるなかれ」のくびきを破ろうと、鶴の一声を待っている。しかしこれもわが志の表出だ。静と動と。ともに「潜みて伏する」身を語り、我々に問いかける。儒教哲学を背景にして問いかける絵。「サロン仕掛け」には、このような哲学的な論議を生む仕掛けが多くあるのだ。
佃 一輝(つくだいっき)
一茶庵宗家。著書に『文人茶粋抄』『煎茶の旅〜文人の足跡を訪ねて』『おいしいお茶9つの秘伝』『茶と日本人』(2022年3月新刊)などがある。
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