忘れものあります|米澤 敬
40|みっちゃん、みちみち
久しぶりに郡上八幡に行ってきた。郡上踊りのシーズンではないと、タカをくくっていたところ、宿も街も海外からの観光客でけっこう混み合っていた。温泉にも浸かったが、旅の目的というか口実は、長年郡上を拠点に活動してきた桃山晴衣さんがフィールドワークで収集した「わらべうた」の資料整理である。桃山さんは東京の生まれ。幼い頃より三味線を演奏し、四世宮薗千寿の内弟子となり宮薗節を修めたのち、「梁塵秘抄」の「うた」としての復元、「今様浄瑠璃」の創作など、日本の「うた」をめぐる多岐にわたる活動を続け、2008年に逝去された。資料や楽器、衣装など、桃山さんの遺品は、かつての茅葺きの養蚕農家の2階に山積みになっており、今回はその中の「わらべうた」のカセットテープやノート、メモ類の全貌を把握することに専念した。読み込むことまではできず、CDや書籍としてどのようにまとめるか、あるいはまとめないかについても、白紙のままである。収集された「わらべうた」は、美濃飛騨地域に加え、佐渡や沖縄などのものも含まれていた。「段々のぼって/頭さ参って(頭)/段々下りて/松原こえて(睫毛)/眼医者へ寄って(眼)/花一本折って(鼻)/頬たに叱られて(頬)/口惜しうないか(口)/無念なことや(胸)/知りもせんくせに(尻)/おへそが笑う(臍)」の「からだうた」も資料中にあり、かつて桃山さんのライブで聴いたことを懐かしく思い出した。
「わらべうた」というと、「かごめ」や「通りゃんせ」あたりが連想され、教科書に載っていたりもする。しかしこれらは教科書に採用された時点で童謡化し、全国一律になって「うた」としての生命は失われてしまった。「わらべうた」は時代や地域によって変化し続けるものであり、先の「からだうた」も、東京では「あたま様まいた/松原こえて/メーシャに寄って/花一本盗んで/ほうぼうで叱られて……」などと歌われていた。また「わらべうた」は必ずしも親世代から子世代へと伝承されるものばかりでもない。「みっちゃん、みちみち、うんこして/紙がないから手で拭いて/もったいないから舐めちゃった」や「あんた、ちょっと、見かけによらない、日本一のくるくるパー」のような歌は、保護者に教えられて覚えるようなものではない。また民族音楽研究家の小泉文夫によれば、子どもたちが産み出した「替え歌」も「わらべうた」である。「ポ、ポ、ポパイ/ポパイのおなら/セ、セ、世界でいちばんくさい」は「証城寺のたぬきばやし」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の、「松原父ちゃん/消えゆく母ちゃん/父ちゃんと母ちゃんがケンカして/父ちゃんは得意の空手チョップ/母ちゃんは得意のハンマー投げ/見よこのケンカ/見よこのケンカ」は「海」(林柳波作詞、井上武士作曲)の替え歌である。そういえばグループサウンズが流行った頃、「森とんかつ/泉にんにく/かーこんにゃく/まれてんぷら/静かにんじん/ねむーるんぺん/ぶるーぶるー/ぶるしゃと」などと歌った憶えがある。
小泉による東京の小学生を対象とした1970年代の調査では、バリエーションも含め数千曲の「わらべうた」が採集されたそうだ。少なくとも当時は、都市部でも「わらべうた」は生きていたのである。インターネットとスマホが当たり前になった今、子どもたちは親の知らないところでどんな「うた」を唄っているのだろうか。もちろん数は減っているのかもしれないが、おそらく「うた」は生き続けているはずだ。たとえば「最初はグー/じゃんけんぽん」も、拍子も間も旋律もある立派な「うた」なのである。
個人的には、言葉よりも先に歌があったと考えている。認知考古学者、スティーヴン・ミズンは『歌うネアンデルタール人』でネアンデルタール人においては、言葉と歌は一体だったという仮説を提唱している。鳥がさえずるように、人もまず声を歌のために使っていたのではないかと思う。鳥も人も二足歩行だ。四つん這いの姿勢では喉まわりの筋肉が圧迫されて歌うのは難しい。二本足で立つことで、声が自由になったのだ。
人はそんな歌声に思いを乗せるために、言葉を誕生させたとするのは考えすぎだろうか。人ほどに脳を重くすることがなかった多くの鳥たちは、その軽やかなからだを生かし、言語を獲得するよりも空を飛ぶことを選んだのかもしれない。子どもたちが「わらべうた」を歌うのは、鳥たちがさえずりながら空を飛ぶようなものなのである。今日もどこかでこんな「うた」が歌われている。「みーっちゃん/みーっちゃん/遊びーましょ」。
米澤 敬(よねざわたかし)
群馬県前橋市出身。小学校ではは新聞委員をつとめ、中学校では卓球部、高校では生物部に所属した。以後、地質調査員、土木作業員、デザイナーを経て、現職は編集者。
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