読めもせぬのに|渡会源一


1|狢の道引


私は、書物は好きだが、読むのは不得手である。和物なら特に江戸期の刊行物、洋物なら19世紀以前の書物に惹かれる。しかし英語も羅語も漢語も歯が立たず、近世和語も翻刻でもされていない限りは、珍紛漢紛だ。だから専ら挿絵や図版を眺めて、あれこれ妄想に耽るのが何よりの愉しみである。なまじ読解力がないだけに、尚更愉しいのかも知れない。そうした絵図を描いているのは、一部の例外を除いて、ほぼ無名の職人達である。奥付等に画工名が記されている書物も少なくはないが、普通はあまり目にすることのない名前であるし、矢張り誰が描いたのかより、何を描いたのかの方が気に掛かる。現代の自称アーティストのような自意識や「個性的」表現は、ただただ愉しみの邪魔になる。


『松の落葉』という本がある。ある調べ事をしていたら、「推古三十五年に陸奥国で狢(むじな)が人に化け、歌を詠んだ」という挿話の出典元としてその書名が挙げられていた。原典は『日本書紀』の「陸奥国有狢化人以歌之」であるが、勿論『日本書紀』自体に挿絵などはない。もしかすると『松の落葉』に狢が歌を詠んでいる絵が載ってはいないか、と淡く愚かな期待を抱きつつ、同書を繰ってみた。矢張りそんな都合の良い挿絵などはない。狢が詠んだのはどんな歌なのかという事にも興味があったが、大元の『日本書紀』もそこには触れていないので、知る由もない。
『松の落葉』(1832)は、歌人で本居宣長の門人でもある神官、藤井高尚による随筆集で、神道、国史、国文についての考証がその内容(らしい)。唯一の挿絵は「蘆手」に関する物だった。蘆手は、和歌や物語を連想させる所謂「歌絵」の起源だともされるが、詰まるところは「文字絵」である。江戸期には「判じ絵」として結構流行もした。「へのへのもへじ」や「つるさんは まるまるむし」の仲間と言っても良いかも知れない。

京都国立博物館所蔵「塩山蒔絵硯箱」:絵の中に「志本能山散新亭(しほのやまさして)」「君加見代遠盤(きみかみよをは)」「八千世登曽(やちよとそ)」の文字があしらわれている。

松の落葉』には二例の蘆手が載っており、その内の「月」が気に入った。ただ、私には読めない。本文中でも絵解きされていない。当時の読者にとっては、余計な解説なしでも恐らく難なく読めたのだろう。悔しいので、矯めつ眇めつして最後の「見ゆる月かな」だけは何とか読み解いた。著者が敢えて紹介するのなら、そこそこ知られた歌なのだろうと見当を付けて、探してみた候補が、西行法師の作を含む以下の歌だった。


 今宵しも 天の岩戸を 出づるより 
 影くまもなく 見ゆる月かな

 雲もなく しのたの森の したはれて 
 千枝のかすさへ みゆる月かな

 うき雲も およはぬはかり 天原
 澄のほりても みゆる月かな

 こよひしも あまのいはとを いつるより
 かけくまもなく みゆる月かな

 紅葉せて 秋もゝえきの うつほ草 
 つゆなき玉と 見ゆる月かな

何れも違う(と思う)。古典籍を専門に扱う知り合いの古書店主にも尋ねたが、判らないと即答された。ぼんやり眺めていれば、突然読めたりするものだよ、と先達のアドヴァイスを戴いたものの、未だその「突然」はやって来そうもない。

 
 

渡会源一(わたらいげんいち)

東京都武蔵野市出身。某財団法人勤務のかたわら、家業の古書店で店員見習い中。